超心点と触覚~皮膚感覚との関係

●超心点(ちょうしんてん) 潜在化における重心の位置。人間の次元における反覚醒と覚醒の境界。表相の中和が起こるところ。定質を性質に変換させるところ。覚醒させる力を送りだすところ。モノの界面。モノと皮膚が接触する部分。覚醒においては「重心」となる。

“定質を性質に変換する”の部分。定質は上昇力。性質は下降力。男性的な力と女性的な力と説明される。イデア~理念的な力と、肉体的な力のニュアンス。男は頭がいいが、神経がか細く、女はさほどには頭は良くないだろうが、神経が図太く、自殺者はずっと少ない。男は知識をもち、女は知恵をもつ。

日本の社会に不満をもっている女たちが、家の中で男をいじめていて、男に胃腸の不調の者がとても増えている。逆に、犬や猫は、大人気である。

上次元の力が、下方向に変換される時、人間の感覚においては“皮膚感覚”を窓口にすると書いてある。

(“重心”はヌーソロジーにおけるキーワード。これはひとまず置いておく。上次元における変換作用の中点、ゼロ点だということ。これを人間は“神”とみなしていると言う。また、重心は身体ということと関係している。)

●超心点 人間が点(=ユークリッド的な点)と呼ぶものの正反対の場所にある。人間の意識の内面においては、肉体と世界との界面部分として現れている。外皮。人間の身体の形態が作り出されているところ。物理学でいう特異性の本質。触覚とは定質が性質に変換される機能。

ここでまた“点”が出てくる。

意味の世界が巨大となるに従い、人間は、点の本質としての“点の対化”を忘れ、ひたすら一つの点、一つのモノに向かう。辞書的な知性のあり方。統計的な観察のあり方。

超心点は、そのような一つの点としてのユークリッド幾何学的な点の、“正反対の場所”にある、と言う。

そしてそれが、人間の肉体と世界との界面に現れていると言う。そして人間の身体の形態というものがそこで作り出されているのだと言う。その場所は、物理学的な認識では捉えきれない死角である。人間の皮膚~体表が触れることの“境界”ということ。

ヌーソロジーでは、“日本人の意識”というものが、人間の意識としてのデフォルト、つまり4次元空間的な認識や、表相の対化~点の対化という意識のあり方により近いと説明している。これは、日本人の意識と、古代的な意識や身体性の近さと関係していると考える。

・つま【夫・妻】 つまは端(つま)。ものの両側面をいう語である。それで一組のものが、たがいに相手を「わがつま」とよぶことができた。夫からは妻、妻からは夫をよぶ語で、のち妻の意に用いるようになった。(字訓  白川しずか)

歴史上、夫婦が互いに“つま”と呼び合っていた時代が、いつごろまでだったのか。巫女たちが、神殿から離れる。あるいは追い出される。そして諸国遍歴の旅に出る。そのことと関係するのではないか。

村の若い男の筆おろしを、巫女がやる。あるいは、尼寺の尼さんがやる。性というものは、こういうもんだよ。モノじゃないよ、モノみたいに操作できないよ、重なって、互いが入れ替わるような独特の感覚なんだよ、と。

もっぱら、男の方から女を妻と呼ぶという時代になると、対象性~操作性に傾き、巫女の性的な技能は必要とされなくなる。“遊び”や“狂い”は変性意識のことであり、変性しない意識の状態で、性に臨む男が増えてくるわけだ。それで、あの女はどうだ、この女はどうだと批評する。

●超心点 真実の地球。言葉を生み出す力の核。言葉をまとめる力の核。観念が生まれているところ。

下降が起きている場所は、人間の足裏なのではないだろうか。

外側の言葉には、意味の累積があるだろうが、そのような言葉によって“真実の地球”を捉えることはできないと。できあいの言葉ではなく、言葉を生み出すところの、生成を捉えねばならない。

巫女が踊り、神かかりとなって即興的にうたう。そういうことと関係しているのではないか。