“空間に漏れ出す身体”の観察 見ることは交叉ることである “表相の交差”

-引用-

「踊る身体」とは「空間に漏れ出す身体」である。舞踏を見るという体験は、「対象を見る」ということではなく、空間に漏れ出してきた身体と交叉るという体験だ。いや、舞踏を見るというその体験を通じて、そもそも「見る」とは「交叉る」ことであるということが知れる。

 

「身体が空間に漏れ出す」というのは比喩的に言っているのではなく、そもそも人間の脳内マップにおいては、「身体」とは劃然と皮膚によって囲い込まれたその範囲を指すのではなく、所謂パーソナルスペースと呼ばれる空間にまで拡張されて捉えられている。舞踏においては、その範囲が操作されるのだ。

 

「空間に漏れ出す身体」とは、同時に「空間化される身体」ということでもある。ここでも「水」や「影」や「音」や「間」といった<空間>が身体化されているのが感じられるだろう。その幾分か非-人間化された身体と交叉るあさことで、我々は「人間の外」に脱することが適う。

 

例えばマッサージやセックス、家族団欒といった人間間の親密圏を形成することよりも、物そのもの、元素のセックスアピールに開かれることの方がよりコスモロジックであろう。舞踏する身体は<社会>から逃れ<宇宙>へと脱する。

https://twitter.com/freakscafe/status/1155295266800410625

-引用-

 

ここで、ヌーソ○ジーを引用してみると、ヌーソ○ジーでは“見る”ことは“表

相”の語と関係し、下の意味での“立ち現れそのものが見ることである”のニュ

アンスは、“表相の顕在化”に相当するのではないだろうか。

私見では、“表相の中和”→“表相の対化の顕在化”→“表相の交差”の順では

ないかと思われる。

“表相の中和”とは、顕在化しておらない表相、つまり対象的な目線が、なんら

かのかたちで“中和”される、“中和=相殺”のニュアンスだそうだから、なん

らかのかたちで対象性が相殺されることで、

“表相の顕在化”というものが起きる。これは正確には“表相の対化の顕在化”

だと説明されている。


-引用-
●表相の交差(ひょうそうのこうさ) ヒトが意識進化を行うときに、人間の外面

に表相の観察を生み出させるための交差。真実の元止揚の対化が交差を起こすと

ころに相当する。モノの内部と外部の境界の出現に対応する。カタチとしてはケ

プラーの星型八面体。世界の再生が行われるということ。

 

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-引用-


“ヒトの意識進化”とは、“真実への人間”への意識進化。ヒトと人間が同居す

る“変換期”での進化の目的が、“真実の人間に成ること”。変換期におけるヒ

トと人間の意識の同居のあり方を“変換人の意識”と言う。


で、この場合、従来的な“精神世界”風の“アセンション”文脈だと、変換期の

変換人としての、ヒトと人間との意識の分化が、そのまま進化と、進化に取り残

される者、としての階層的な差別をもたらされる、のニュアンスだが、

自分の考えは、2013年以降の覚醒期に入ると、変換人となって変換期を構成する

として、その時、自分の中に、ヒトと人間が同居しているのだろうと考える。つ

まり、変換人である。

今のあなたの、この意識はなんだろうか。今は、2013年以降の、覚醒期における変換期に入っており、私たちは“変換人”として、ヒトと人間の意識を同時に生きるような世界に入り込んでいるはずだ。しかし、この意識はしかし、人間であろう。

しかし、それは“人間の外面”の方にいくばくか向いていて、…外部対象ではなく身体の内部といっていいのではないか…ここに“ヒト”の表相が、“交差”してくる、と。“ヒトが意識進化を行うときに、人間の外面に表相の観察を生み出させるための交差”。

またそれは、“モノの内部と外部の境界の出現”としてあるということ。これは具体的には何か、ということ。

少なくとも、その領域に、この自分の人間の意識の外面としての表相のあり方を介して、“ヒトの表相”の交差を、感じ取ることができるはずである。あるいはその時、“私”は、ヒトの表相となって、自らの人間の意識の外面領域における表相を、交差する感覚をもつかもしれない。

なにかこう、自分の中に“得体の知れない怪物のようなものがいる”。そんな感覚が生じてくることはないだろうか。そしてその分量が、少しずつ増大してくるような感じがする、と。

※表相の中和、表相の対化の顕在化、表相の交差…と来て、では、“表相の等化”はどこにあるのか、と。これはおそらく“上次元”で、“ヒトの表相”の次元に起こっていることだろうと考える。これは“感覚”ではまったく把握できない。交差も感じられない。形而上学的、イデア的な何かであり、人間の意識からは、図式や数式によってしか把握できない何かであろうと思われる。

そのような意味での“表相の等化”が、人間の意識の中に、“概念”というものを一般的な作用として送り込んでいるということ。つまり、言語や概念は、上次元のイデア性を人間の意識に射影させて来ているが、それそのものに“振り回される”と、イデア至上主義的な弊害をもたらす。一般化の、より強力となった、極まりのような弊害となるだろう。まったく多様性というものを許容しない概念のファシズムである。