超心点(ちょうしんてん)とは何か

“表相の対化”としての“点の対化”をもたらす、“表相の中和”の作用をもう少し追いかけてみる。

●超心点(ちょうしんてん) 潜在化における重心の位置。人間の次元における反覚醒と覚醒の境界。表相の中和が起こるところ。定質を性質に変換させるところ。覚醒させる力を送りだすところ。モノの界面。モノと皮膚が接触する部分。覚醒においては「重心」となる。

ヌーソロジー用語が多く、難解である。こういうことだろう。

世界が顕在化に向けて動き出すと…最終構成…人間の意識の覚醒が個々に起きてくるが、その覚醒と、“反覚醒”の“境界”というものがある、と。

この“反覚醒”とはなにか。

覚醒がもたらされた時に、その覚醒を“事後的”にニュアンスしない、ということではないか。覚醒が起きる時、その覚醒と、“反覚醒”の、その“境界”に注意しなさい、ということではないか。

覚醒は、顕在化の方に向くが、反覚醒はその逆となる。潜在化の方である。

顕在化とは危機学的なイデア思考と関係するそうだから、そっちの方と、その逆の方向。この逆の、反覚醒とは、人間の“肉体”と関係があるのではないか。

“身体”と言う時、身体は、内部に幾何学的な構造をはらんでいるとニュアンスする。それと同時に、身体は、肉体的な、情動の流れ、あるいは重力的な下方の流れをもっている。

その意味で、“顕在化”にあって身体は、覚醒としてのイデア的な方向と、肉体的な反覚醒としての下方とに、引き裂かれるようなかたちとなるであろう。

この時に、独特の“つらさ”が引き起こると考えられるわけで、その部分が、舞踏家の最上さんの発言の内容と重なる。

舞踏家の最上さんが言うように、“いきなり宇宙に飛ぶ”ものでもなければ、“ふわふわ”したものでもない。独特の“つらさ”、せめぎ合いの中を生きることである。顕在化なり覚醒なりを、自我の具体的な状況の中においてとらえねばならない。

巫女が巫女に成る過程で、巫病、神ダーリーが起きる。ダーリーは、だるい、という実感性と、“顕れ”のニュアンスが重なっている。言語化や、認識化のむずかしい、だるさ、不調、違和感であると考えられる。

ヌーソロジーの言うような“顕在化”が引き起こっているとすれば、それは女性においては、ある種の巫病として現れ、その現象が、いわゆる“メンヘラ”と関係があるのではないか?

これに対して、男の場合では、肉体の次元をすっとばして、あるいは切り捨てて、イデア的な図式や、数式の方に飛ぶ、超越してしまうことは可能だろう。あまりにそっちの方にいくと、逆に、メンヘラ的なものを包摂できなくなる。

イデア的な覚醒と、それに対する肉体的な反覚醒。その引き裂かれとしての境界。ここに“表相の中和”が起こる。そして、この表相の中和の作用を通して、次の段階の“表相の対化の顕在化”に進む順番となる。

(表相の顕在化は、“位置の顕在化”の前に起こる。顕在化における“位置”の問題を考える前に、潜在化における“表相”の問題を考えているということ。)