ψ1-2=視覚、ψ3-4=触覚、ψ5-6=聴覚、としてみる
自分の感覚としては、視覚、触覚、聴覚は、
ψ1-2、ψ3-4、ψ5-6に関係するのではないか。
…というか、今とりあえず、そのように考えてみる。
ψ1-2、ψ3-4、ψ5-6、ψ7-8と、“人間の元止揚空間”を構成している。
単純に、ψ1-2~ψ7-8とか、あるいは単に、ψ7-8と表現されることもある。
人間の元止揚空間とは、人間の“無意識構造”のことだと言う。
図:人間の元止揚空間ψ1-2~ψ7-8
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これは単純にいえば、外部認識としての“表相=点=見られるもの=対象性”ということと、
それに対する内部性のことである。
その対比である。
外部性は、対象化であり、それは視線による認識の構成ではないだろうか。
現代のメディアは、視覚中心主義となっている。
認識が外部で構成され、そこで客観性が担保されている社会である。
事故が起きれば、映像的な論拠が求められる。
西洋文明は、キリスト教における、正統と異端をめぐる訴訟の歴史であるから、映像化としての外部化の技術が進み、
アメリカの歴史なども、ハリウッドの西部劇のような、眼に見えるかたちで論拠をもたされている。
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外部性は、ψ1-2であり、表相であり、点認識~対象化認識であり、視線による構成であり、
それが、表層的な意識であると考えていいのではないか。
これに対して、ψ3-4、ψ5-6は、意識の内部性を指向している。
つまり、無意識である。
現代文明は、西洋~キリスト教が先導するかたちで、映像的な、外部の、表在的な意識を論拠として構成されている。
(これはもともと、ユダヤ人の文化に発している。ユダヤ人が、そのアイデンティティーとする旧約聖書の世界は、映像=ビジョンの世界である。)
ψ1-2=視覚、ψ3-4=触覚、ψ5-6=聴覚として、これらが“無意識世界”では一体となって、意識のグラデーションを構成しているとする。
純粋な、視覚、触覚、聴覚というのは、無い。
原則的には、人間の感覚とは、互いに協働(きょうどう)するものだと言われている。
…つまり、ψ1-2=視覚に寄ると、外部化~外在化に寄り、ψ5-6=聴覚に寄ると、内部化~内在化される、ということだろう。
中間のψ3-4=触覚は、その外部⇔内部性の中間性であり、それをとりまとめる働きではないか。
つまり、触覚~皮膚感覚には、点的、面的、球面的、という変化があり、
それが点として、視線と協働する時、ものを対象化し、視覚中心性としての認識を構成する。
(現代の都市的人間は、ほとんどの知覚を、このように使っている。)
面的であるとは、皮膚感覚的な世界であり、…近接的なプライベート空間…、だっこしたり、握手したり、ハグしたり…
(眼を閉じて“色(しき)”の世界から離れ、瞑想し、お経を詠む、…としたが、その時、座禅や正座をやって、触覚~皮膚感覚は“面”化していると考えられる。)
球面的となるのは、風呂に入ったり、瞑想する時だろうか。
音楽体験は、空間的な波動体験であり、球面に近い。
ほんとうの音楽は、球面としての体表の全体性で感じ取るものだろう。
ロックのライブでは、大音響と音圧により、ほとんど強制的に、球面化が為されると考えられる。
行ったことがないが、“クラブ”のホールなどの音も同様であろう。
mp3の音源には、そのような体表的な要素が無いということはよく言われる。
※1-2=視覚、ψ3-4=触覚、ψ5-6=聴覚というのは、あくまで、ここでの試論であり、確定的なものではまったくない。
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