Twitterの方で「今日のヌース用語」シリーズが始まっている。

近いうちに、「ヌース用語辞典」のリライトがあるのかもしれない。

-引用-
「【表相の等化(ひょうそうのとうか)】 表相の対化が等化されることの意。表相の対化とは自己側と他者側の表相のことを言います。表相の等化は対象という概念を人間の意識に送り出します。逆に、対象という概念を消失させるのが表相の中和。」
-引用-

主体と客体、つまりモノとの間にそれを対象化しようとする意図が意識に働く時、そこに距離が生じるということ。その距離(=幅)の空間において、「概念の一般化」が引き起こる。

お茶の間で見るテレビ。画面との距離の中にCMがはさみ込まれていると言える。スーパーに出向く。その商品を買わないといけないような気分になる。その時に「幅の力」が作用している。幅の時間には「急かされる」という特徴があるのではないだろうか。

急かされるのは、そこに「生命感覚」がないからだろう。幅として空間や時間には、生命感覚がないので、急がないとすぐに死んでしまうのだろう。死なないように、幅の世界の空虚さに気づかれないように、つねにせわしく回転し続けているのが資本主義というものなのだろう。

“ヤリ手”の人はつねにせわしない。逆に、のんびりしている人は“問題外”とされてしまう。発達障害の人のように、生命感覚に敏感な、エーテル空間に近しいところで生きているタイプの人が、むしろ逆に、今の世の中ではスポイルされてしまう。

生命的な時間、エーテル空間的な時間というのは、「待つことができる」ということだろう。シュタイナーが、「植物の発芽の力の未来性」をうんぬんしていたと記憶するが、そこには成長を見守る人間の視線が含まれるのではないか。

生命的な時間は、経済に換算できない。「林業や農業などの生命にかかわる職業は根本的なところで資本主義とはミスマッチである」と言われる。本来はいっしょくたにはできないものなのだ。人間の健康を害することになってしまうからだ。

最終構成の局面においては、人間の意識の顕在化を促すために「表相の等化」が進む。資本主義やグローバリズムが世界を席巻していく。そういう流れの中では「生命感覚」うんぬんはやぼったいものとして映る。「待つこと」ができている生命感覚の豊かな人は、のろまやまぬけに見える。

昔の中国で、文明人たちが、文明に取り残された辺境の宋の国の人々のふるまいを馬鹿にした。「畑でうさぎが切り株に当たって死んだ。私はもう一度うさぎが来るのを待っている」。わはは、うさぎがもう一度切り株に当たるのをそうやって永遠に待ち続けているがいい。馬鹿な宋人め。

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「表相Aを自他ともに同じAとして見せているのが“表相の等化”。これは、人間の意識においては単に対象の回転(SO(3))として現れるが、「表相の等化」そのものを行っているのは高次元空間におけるSO(2)である。」

上位空間でのSO(2)(=エーテル空間)の顕在化そのものが、逆に、人間の世界にあっては「表相の等化」としての一般化を促しているということ。逆に、未開の部族社会などでは、それぞれの樹木や動物は、それぞれかけがえのない“それそのもの”だろう。ロボット化以前の、職人たちの手にかかる素材なども同様だろう。

しかし資本主義的な社会では、商品ラベルのもとに、みな一般化される。いかにおいしいリンゴであろうとも、ラベルの条件をみたさなければ棚に並べてもらえない。その枠におさまり切れず、はじかれてしまうリンゴの中に、とてつもなくおいしいリンゴがある可能性が高いと思うのだが?

(木村秋則さんが初めて収穫したゴルフボールくらいのリンゴ。「ほとんどの人が通り過ぎる中、好奇心で手にした人が試食する。「!!、こんなにおいしいリンゴを食べたのは生まれて初めてです!」。有名な話です。)

ほんとうにおいしいリンゴ。ほんとうにおもしろい人間。そういうものはスーパーに並ばないし、テレビにも出てこない。

できあいの、事後的な、対象化済みの、すでに認知された、価格相応の、妥当な、そういったものを享受している「安全な生活」の実態。「豊かで安全な、いい社会にだ。毎日がとても幸せだ。」老人たちは誰でもそれを口にする。何度も自分に言い聞かせるように。…ほんとうにそう思っているのか?

「表相の等化は対象という概念を人間の意識に送り出します。逆に、対象という概念を消失させるのが表相の中和。」

「●表相の中和(ひょうそうのちゅうわ) 人間の最終構成から顕在化に入るところに生じる。人間に表相の働きを失わさせること。すなわち、表相の顕在化を起こさせ表象化をやめさせてしまうこと。表相の対化を作り出すための上次元の調整作用。」

感覚の中で相殺されているのは、ひとつ、足裏の感覚ではないだろうか。感覚の潜在化というのか、ある種の盲点というのか。目によっては目そのものは見えないという話があるとともに、足の裏にあまり意識が行っていない。

リンゴの無農薬栽培を試みながらついに生活に追いつめられ山に入った木村さんであるが、もうろうとした意識の中で幻視したリンゴの樹にかけよった時に驚いたのが、山の土のやわらかさだった。「畑の土をこんなふかふかの土にしたらどうなるだろうか?」。新たなインスピレーションを得て山を降りる。

木村さんのまなざしが届かなかった路肩の10本のリンゴをのぞけば、すべてのリンゴが実を結んだ。頭が良く、実験好きの木村秋則さんが、あらゆる手をつくして、無農薬栽培に取り組んだ。ありとあらゆることを試みて、その結果をめぐりのたうちまわった。そして、その答えが、皮肉にも“対象化不能”な自分の足元にあった。

「表相の中和」における「無限遠点」のようなものが、足裏にあるということではないか。人間の視力が変換作用に関係あるとして、人間の触覚における“相殺”が、変換作用の反映としての人間の意識の転換作用に関係があり、その領域で、人間の意識の進化、つまり“元止揚空間の覚醒”は、その推進力をいわば“自己調達”するのではないか?

●超心点(ちょうしんてん) 潜在化における重心の位置。人間の次元における反覚醒と覚醒の境界。表相の中和が起こるところ。定質を性質に変換させるところ。覚醒させる力を送りだすところ。モノの界面。モノと皮膚が接触する部分。覚醒においては「重心」となる。(ヌース用語辞典より)

 

画像:毘沙門天(=ヘルメス神)

 

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