点の中の世界

オコツトの話で印象深いのは、“人間の意識は“点”の中に入っていて、よく見えない”という話。

つまり、人間の3次元空間的な認識は、“対象的”なものであり、それは、対象化される点、対象点をめぐっている。

つまり、そういう、対象としての質点である、モノ~物質をめぐっている。

そういう意識~認識のあり方が、“点の中の世界”ということである。

人間は、3次元空間の内部で、点~線~面~立体、といったものを構成しているが、オコツトからすると、それは“点の中のできごと”である。

逆に言えば、オコツトたちは、それ…人間の認識世界の全体性…をひとつの点として、さらにそこから、線~面~立体を、“高次元空間”において構成しているということになる。

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ヌース風の言い方では、こういう言い方になる。

点として、対象化された世界は、“見られている”世界である。

それは、“点の中”にある。

(…あるいは、それはすべて点である。対象化されたものとしての同一性の中にある。点とか線とか面とか言っても、実は、3次元空間においては、本質的な意味での、次元としての階層的な差異を有してはいないのだ…)

…そして、その点を“見ている”ところの、当の、人間の、主観性としての“意識”そのものは、そのような“意識線”として、

対象=点という次元を超える、性格をもっている、と。

これが、“見る”こと。見る意識である、と。

“見られている意識空間”は、点~対象の世界であり、…3次元空間

“見ている意識”は、そのような3次元空間を覗き込んでいる“意識線”として、3次元空間の外部としての、四次元空間的な成分をもっている、と。

そして、その“見る意識”としての意識線の、起こっているその根元の場所を、

無限遠点(むげんえんてん)”として置く、という発想。

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以上は、ヌーソロジーの基本と思う。

で、自分が“?”と思っていたのは、見ること、つまり視覚認識をめぐって、対象化された世界としての、点認識の世界が、3次元空間を構成する、

という話は納得できるとして、

そこを脱するところの、“4次元空間”の方向までもが、なぜ、視覚的に説明されねばならないのか、という点であった。


●視覚、触覚、聴覚

人間の五感において視覚が最も次元が低いのでしょうが、その他の感覚についてはどのように考えればよいのですか。

視覚、味覚、嗅覚、触覚、聴覚の順となります。

交信記録 19900908


●妄影 人間にとっての目に見えるものすべて。

●音 共性された次元における力。重心が作り出すもの。