“光が虚を生んだのではなく、虚が光の起源となった。水の起源は“落ちる”” (302行)

“光が虚を生んだのではなく、虚が光の起源となった。水の起源は“落ちる”。光が水を利用しようとした企てが人間意識の歴史。光に至るのは人間を超越することで可能だが、水を感じるには人間を産み出した天秤の概念自体から離れることが必要。この似て非なるものの選択が今回最後の地球で問われている”

光が闇を、ではなく、虚とある。この虚のニュアンスは、モノというよりも、肉体~身体だと思いますね。

あるいは、虚としての物質が、肉体である、というような言い方ができるのか。

詩人Kの“物質は聖杯である”という言葉。これは、たんなるフレーズではなく、いろいろな、哲学や、神秘学などの知識の前提をもとにしている。

聖杯に注がれるものとはなにか。なんらかの、聖なる液体が、注がれるのだろうか。おそらく、かかげられるものは、聖杯そのものであり、聖杯というあり方そのものに、その聖なる意味合いがあるのでしょう。

つまり、なにかの目的ではない、用を足す目的ではない、ということの、器そのものとしての特性が、聖杯という存在にはあるということ。

詩人Kの言う“聖杯としての物質”は、“肉体の顕現”と関連付けられている。それは、聖杯における聖なる本質が、その用ではなく、器としてのそのあり方そのものであるように、肉体もまた、器としての、カラとしての、本質を顕わにする。

そのことで、肉体は、聖杯としての物質に関わることができる、…そういうニュアンスであろう。聖杯としての物質。そして、物質に含まれ得るであろう肉体の、その“顕現”とはなにか。それがいかにして、具体的に、聖杯としての物質と関わるのか。

それは、ヌーソ○ジーでは、対象としての物質ではない”のだと言う。人間の意識が、“ものそのものの内部に侵入していく”のだと。それはとうぜん、物質のあり方そのものの変容をともなっているといえる。つまり“聖杯化”である。そしてそれは、肉体の変容をともなっていると思われる。

…ここのところは、本来、物質と、それを感覚する肉体とを、一体として考えるべき思考であるともいえる。ヌーソ○ジーでは、その一体的な思考を可能とする“肉体”を、詩人の“裏身体”…これは舞踏家の土方氏の用語でもある…に見ているようである。

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“光が虚を生んだのではなく、虚が光の起源となった”。

精神=光の働きの、影、反映として、人間の身体としての肉体が地上に現れる、というルートがある。“定質”の反映が、“性質”であり、その性質の完全であるものが、“完全性質”としての身体に現れるという、ヌーソ○ジーの考え方。→完全性質

(注意:自分の解釈は、びみょうにズレている…あるいはかなりズレている可能性があるので、気になる人は、本家ヌーソ○ジーの方に問い合わせてみてください。ただし、個人的には、質問一件2000円くらいのカンパが相場だと思います。)

“光を生み出す虚”、つまり、虚がまず空間をはらんで、その空間から光が生み出されるという働きは、光が虚にもたらしたのではなく、虚こそが、光の起源としてあるのだ、という見方をすること。

これは、タマゴとニワトリの関係で、どちらでも良いのだと思われるが、しおりちゃんが“私の世界観とヌーソ○ジーとは、ルーツが異なる”と言う時、この観点の違い、立ち位置の違いを言うのではないかと考えられる。

“水の起源は“落ちる”。光が水を利用しようとした企てが人間意識の歴史。”

水の起源は“落ちる”ことにあると。このビジョンは、シュタイナーの“水素原子の形態霊”のイメージに似ている。

まあそれはいいとして(笑)、

とりあえず、“落ちる”ということに水の起源がもたされているということ。これはとうぜん“重力”との関係があると考えられる。逆に言うと、“重力”と“水の落下”との差異ですね。

(おそらく、水の落下には、“重力”としての性格からはみでる要素があって、そこをしおりちゃんは重視しているのではないかと思われる。)

“光が水を利用する”とは、光が自らを生むための虚を作ったのだ、とする説明のあり方の中に、…つまり、それにあたっての、虚がはらむ光を生むための空間のあり方の中に、“水を利用”するための方便があったと。

それは当然、“落ちること”を起源~その本分とする水に対する、なんらかの操作だということになる。それが“人間の意識の歴史”に表れている、と。

“光に至るのは人間を超越することで可能だが、水を感じるには人間を産み出した天秤の概念自体から離れることが必要。”

“人間を生み出した天秤”とは、ヌーソ○ジーに言う“重心”のことでしょうね。つまり、ヌーソ○ジーは“重心”を“神”として定義する。

これはそのまま、“人間を生み出した神という概念そのものから離れる”のニュアンスとなる。

…自分は、構造論としてのヌーソ○ジーと、実践論としてのしおりちゃんの世界とが、神智学と人智学の関係に似ているのではないか、というように感じるのだが、

(つまり、神智学は、神的宇宙論としての階層論であるが、シュタイナーの実践哲学は…人智学の“人”は人間としての学問~哲学であるということ…“階層論としての宇宙論”をいったんエポケーする方法論と考えていいのではないか。)

(つまり、神的宇宙がひとつの階層性として在るということは確かであるにしても、“人間が生きる世界”ということを、その中で“フォーカス”する段にあっては、いったん、階層論としての望遠鏡ツールを手放す必要がある。それにより、人間の世界、身体、生活といった内面性への、解析能が上がるということ。これは当たり前の話である。方法論ということ。)

ヌーソ○ジーという広角レンズがある。あるいは望遠レンズがある。そして、身体や生活の具体性を取り扱うしおりちゃんの単焦点レンズがある。人間を実写するには、その具体的な局面に応じたさまざまな単焦点レンズをチョイスすることでよい写真が仕上がってくる。

“光が水を利用した企て”というものが、人間の意識の歴史に反映されているということ。であるならば、“水”にはその記憶がたゆたっている。

光に到るには、“人間を超越することで可能”。しかしながら、しおりちゃんの方向性としては、“水を感じる必要”がある。

光が水を利用して、人間の意識の歴史を操作している。すなわち、“虚が光を生んだ”のではなく、“光が虚を生んだ”という逆向きの、いわば“歴史の書き換え”があるということ。

それを理解するためには、“水を感じる”必要がある。そしてまた、水を感じるためには、“人間を生み出すという構造観にあっての、天秤の概念”そのものから、いったん離れる必要がある、と。

人間の最終局面…つまりヌーソ○ジーの言う人間における最終構成…では、宇宙の“構造”が顕わになってくる。その構造を、光を起源とみなす編纂によるか、光を生む虚を起源とみなす編纂によるか。そういう“見方”の違いである。

それは要するに、ほとんど同じことなのであるが、“今回最後の地球で問われている”のが“この似て非なるものの選択”であるということ。

ヌーソ○ジーは、人間と水を関係づける。水もまた、重力と同様の、人間を人間という限界性にとどめおくファクターのひとつである。

水の中で泳いでいる魚が、人間の意識なのであり、片方づつの魚眼により水中世界を覗くその視界が、人間の3次元空間意識というものが、生物界に反映された姿であると。

そういうヌーソ○ジーの観方の中で、“水を感じ取る”ことを重要視する示唆というものは、出てこないね。

とっとと、光は、水から抜け出す必要があるというのが、“精神の顕在化”のビジョンであろう。

…どうなんだろうね。

しおりちゃんは、ヌーソ○ジーに対するなんらかのカウンターとして出てきたものなのか。そういう要素は、確実に見受けられる。

それは、ヌーソ○ジーからしおりちゃんの方に流れていっている人たちも、感じていることだと思うけどね。

まあ、“レンズ”の違いなのではないだろうか。

明らかに、ヌーソ○ジーの試みや研究に向いている人がいるし、同様に、しおりちゃんの方に向いている人もいるだろうし。

自分は、しおりちゃんの方に向いているタイプかもしれないなと思っているのだが、現状、しおりちゃんの世界観がやはり、その表現において幼く、もうちょっと待ってから、解説書なりまとめなり出てくるだろうから、それからでいいかなと思っている次第である。

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シュタイナーの水素の形態霊のビジョン。

 

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水素原子のビジョン

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水(H2O)のビジョン


 ヌース用語解説。

まず、“完全性質”について。

人間の身体とは何なのですか。

完全性質のことです。オリオンにおける観察精神とプレアデス(地球)が交差を起こしたところに生み出されている妙性質の投影です。

妙性質とはなんですか。

起源を持たない力という意味があります。

シリウス革命』p.600

● 妙性質(みょうせいしつ) 定質によっても相殺することのできない性質の力の対化。中和に生まれる無限力の対化。上次元から見た人間という存在。妙性質の対化の投影が人間の男と女の肉体。真実の力の無限性。

このニュアンスは、定質の対化としての性質の、その中心部、あるいは最も奥深くのところに、この“妙性質”がある、とのニュアンスに見える。

“中和に生まれる無限力の対化”。この場合の“中和”には、それが良いとか悪いとかのニュアンスはないだろう。中和作用には、“無限力の対化”というものが存在し、その無限~無底としての中和の本質に、妙性質があるのだ、ということ。

それが“真実の力”という概念とつながっているという点に、なにかありそうだな、という気がしますが、

ここらへんは、ヌーソ○ジーにおける“裏技”の部分ですね。

性質の最も深くにある妙性質における“真実の力”の要素が、定質における精神の力の作用を“凌駕する”ということなのかもしれない。

しかしこれはあくまで“裏技”であって、男女の性における無限力の開花、なるものを、まず前面に押し出すあり方はとらない、という、ヌーソ○ジーのアプローチの仕方であろう。

・妙性質の対化

中和によって生み出された次元が共性させられたときに生み出された次元。

・妙性質の等化

精神構造におけるすべて(総体)が等化を持ったとき。

・妙性質の中和

存在はするが、説明不能

…ここらへんは、よく分かりませんね。

妙性質の等化と、精神における総体の等化が、出会うような頂点のようなものがあるのかもしれませんね。

そんなことを考えても、仕方がありませんが、ひじょうに面白いですね。そういうことを考えてみるだけで。

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●重心(じゅうしん) ヌー○ソジーにおける「神」の定義。ケイブ(洞窟宇宙)における黄金分割点そのもの。二つの黄金比(内分比、外分比)を見い出すもの。対化の内面と外面を分割するところ。

対化の外面から内面に入るところとは、人間が顕在化を起こす最初の部分と考えられるので、このとき人間の意識に顕在化を起こさせる起点となっているものが重心の位置となる。重心自体には変換される力はない。核質の中和と反核質の中和を合わせ持つもの。

核質の対化が作るキアスムにおける交差する部分そのもの。三次元空間に埋め込まれた二次元球面S^2。人間の内面の意識におけるモノの界面。惑星としては金星。SO(3)の観察空間が反転した対象の内部と看破することが顕在化としての最初の精神作用となる(ψ3)→最小精神。

Twitterの方での説明。

●今日のヌース用語20171108 【重心(じゅうしん)】ヌーソ○ジーにおける「神」の定義。変換の総体を作り出していくもの。重心は変換の中点として振る舞う。人間の意識に形質を与える力のこと。核質の中和と反核質の中和を併せ持つもの。自他の皮膚の触れ合いの位置にある。

ここに、“自他の触れ合いの位置”とあるのは、身体の具体性に関係している。

“重心”の潜在化が“超心点”ですが、超心点では、皮膚とモノの界面である。それが、“重心”では、“自他の皮膚の触れ合い”となる。ここらへんのニュアンスですね。

ただし、精神における変換作用というような、精神の働きが、“皮膚の触れ合い”を支点として実現される、ということの、具体的なニュアンスが不明だとは言える。

ヌーソ○ジーセミナーで、次から次に“ハグ”する、みたいなことはしてないと思うので(笑)

まあそういうことではなく、日常のことでしょうけどね。そういうニュアンスが、このTwitterでは加えられてありますね。