事後性の思考、感性は、すでに時代遅れとなりつつある

自分はこれまで生きてきて、漠然と思うのは、男というのは確かに、いわゆる“頭が良い”という人も多いのだが、どうなのかな、と思うんだよね。男の頭の良さというのは、理論的というのか、図式的というのか、要するに、“事後的な”、後から、なにかをめぐって“それについてどうの”する知識であって、

“生成”的なものではないな、という気がするわけだ。言葉にして言うならば。

そういう、男の思考の特徴と、そして、それに対する女に独特の思考法との関係をうまく表している絵が、これではないかな。

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聖書、つまり旧約聖書新約聖書…の世界は、一神教の世界で、男性的な世界だと言われている。この図でいえば、アダムからの視点である。キリスト教では、女をたぶらかした蛇というものを嫌う。

ところがキリスト教の異端…というか、実際には、古代地中海地域の土着の思想である“グノーシス主義”では、逆に、エバに知識を与えた蛇を重要視する。この点が“拝蛇教(はいじゃきょう)”として、キリスト教グノーシスを嫌う理由ともなっているらしい。

女が料理して、できた料理を男がいただく。せめて“おいしい”とか言ったらどうなんだ、出てくるのが当たり前とかでなくて、という話はよくあるが、本質的には、男というのが“事後的”であるという点にあると思うわけだ。なにかが出てきてから、起こった後から、それがどうの、する。言う。

出てきた料理を、うまいだの、なんだの“批評する”。出てきた舞台の踊りを、後から、どうの批評する。そういう知性、感覚、知識のあり方。
古代の、人間社会の拡張の時代において、いろいろと大きな変化があって、その変化に対応する場合に、流動的な、女性的な知性が必要だったが、あらかた社会の大枠が決まると、後は、男たちの知性、対象化と操作性の知性が幅を効かせるようになる。そういう経過があることは確かだろう。

しかし、ほぼ間違いなく、現代、あるいはこれからの世の中は、激動の時代になる。社会の方は、より固定的になる側面もあろうが、むしろ人間そのもの、あるいは人間の内面性は、そこから外に溢れ出して、流動性の方に行くようになる。

で、話を最初に戻すと、男女の性なら性で、ああいういかにもな、バターン化されたスタイルが、ちょっとむずかしいという状況に入っているのではないだろうか。

パターン化、定形化、側からの視線、形式化。事後的に、こういうかたちであらねばならないという思い込み。それをめぐる逡巡。それゆえのストレスと、そのはけ口を求める心理と欲求。

まず、たとえばキリスト教は、土着の教えに多いパターンである“蛇”という象徴性を、男性の性器、つまり男根表象にむすびつけて、悪魔的なものに仕立てあげてましたよね。

日本では、なぜか、宗教的な性的な倫理規定が弱く、その手の古代のシンボルが残っていて、世界中の注目を浴びたりしている。先進的な日本社会でなぜこれが、という不思議さ。

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しかしながら、かような伝統も、実は歪曲がなされていて、これは中沢しんいちさんの“精霊の王”という本に出てくるが、古代の男根象徴は、実際にはずっと小さなものであり、さらにいえば“皮かむり”であることに特徴がある。画像:石神様

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男の思考は事後性であるから、側、見栄え、記号性にとらわれる。単純に言えば、より大きく、巨大化していくわけです。

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料理が出てきて、それがうまいとか、まずいとか、そういう話である。プロセスという部分に目がいかないままであれば、ひたすら、グルメ、グルマンという方向に肥大する。事後性と批評性、そして、有名レストラン○○で食ったとかいう話。

女性が面白いと感じるのは、事後的な姿ではなく、プロセスですよね。成長や、それをはぐくむ行為である。これは、男根象徴の場合もそうで、もともと古代の性器信仰は、女性~巫女が中心だった可能性が高いわけですが、その場合の造形は、小さいものであり、皮かむりになっている。

男は事後性であり、立派な方がいいという、自己満足。“いやー、立派ですねー”。女性はプロセスなので、むしろ、“皮”の方に関心がいく。包皮が伸びる様子、皮が伸ばされる様子、そういう“変化”の方に、“面白さ”を感じる視点である。

 

野菜に喩えられるパターンが多く、ナス、キュウリですね。畑は女がやっていた。米は、田んぼで、男たちが、立派な米を作る。畑では、女たちが野菜を作り、野菜は、いろんな大きさ、いろんな形のものが取れる。基本的には、女性はそういうものにこだわらない。育てる過程を楽しみ、慈しむわけで。

これまでは、できあいの商品を消費する消費社会なので、男的な、事後性の思考、感性、批評性というのが…それについてあーでもねーこーでもねーとくっちゃべる…幅を効かせているが、基本的に、こういうのが全般的に飽きられてきているので、明らかに、プロセスの方に嗜好が行ってきている。

まあとにかく、いろんな意味で、事後的な、形式的な、定形的な、硬直した、男の思考、感性といったもの、スタイルが、急速に時代遅れになってきており、それに変わる新しい傾向…成長や生成そのものとしての商品などの台頭…に、従来の男たちの感性、感覚、思考が、

ついていけてない…とくに企画を決定するような立場に年配の男が多い…ということが、いろんな発想や商品開発の低迷というのを生んでいると考えられる。

なんかこう、立派なもの、側から見て、みてくれのよい、立派だとみなに褒められる、公認されるようなものを作ろうとする、その動機そのものが、ダサいというのかな。…こういうことは以前から言われてきたが、最近はいよいよそういうふうになってきている。

女の思考は“成る”であり、変容するということ。成長やプロセスは変容であるので。それが古代的な思考ということでもある。蛇というのは脱皮する生き物であり、蛇は側から見てどうのという存在ではなく、古代において、巫女が“蛇に成る、変容する”という、そういう媒介物であったということ。

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それを横から、事後的に、男がながめて、なんか、怪しいものを女たちが崇めているな、と。それは悪魔だろうと。そういうもの…グノーシス主義…を排除して、もっと立派なもの…一神教の神…を崇めなさいと。

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“倒錯”しているのはどっちの視点だというのは、その時代時代によりニュアンスが変化するのが実態であろうが、明らかに、これからの時代は、蛇=グノーシス主義復権の方に、寄っていくだろうなと考えられる。

一神教の最後の悪あがき、最後の断末魔のようなものも、出てくるでしょう。いわゆる“産みの苦しみ”でしょうね。)