新たなる方向性の覚醒 (その2)
「新しい太陽」というようなものがまずあって、そこに、「新しい精神の方向性」が向かう、というよりも、
まず方向性ありきであって、その先に、太陽がある、ということではないかと思う。
そのような意味では、その新たな太陽は、複数の精神により共用されており、そしてまた、“創られて”もいる。
進化し上昇する精神の方向性においては、おそらく、前と後ろしかないのだろう。
つまり、陰陽である。
くねくねと左右にうねる運動から、直角に、それが立ち上がっているということである。
その新たなる精神の運動性の特徴とは、後ろと前、陰と陽のふたつの世界を掛け合わせながら、前進していくというものとなっているのだろう。
陰陽の掛け合わせそのものが、前進エネルギーとなっているのだろう。
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吉野さんの説明はこうである。
ウタキの神木のビロウ樹は、蛇神の見立てである。
それは、男根の見立てでもある。
その神木は、ウタキの神殿そのものと扱いは変わらない。(むしろ神殿はもともとは神木の代用である…)
しかし、土に生えている神木ビロウを持ち運ぶわけにはいかないので、その葉っぱを切り取って、そこからビロウ扇を作り、それを神殿=神の依り代に見立てる、ということ。
これに対し、今現在の私の仮説はこうだ。
蒲葵樹も、蒲葵扇も、なにかのなにかというよりも、「それそのもの」であろう。
それは、「新たな精神の方向性(それは必然的に新たなる太陽へと向かう)」をシンボライズしたものである。
「起きる」というニュアンスにジャストミートされており、それは確かに「方向覚醒」という言葉のニュアンスに重なる。
蒲葵樹が、他の樹木に較べ、シンプルな形状をしており、葉を落とせば蛇もしくは男根のようになる。
(実際に肌合いが人間のようであるという。たまたま高校の時、修学旅行で沖縄にいった吉野さんが、「この樹木は男のアレではないか」と気づいたことから、後の「扇」の研究を通じて、扇が蛇と結びつき、古代縄文の蛇神研究というテーマが立ち上がった。)
それは、太陽に対し、シンプルな陰影を作る。
また、扇の方も、裏と表、つまり前と後ろとで、舞うようにして動く。
それらはおそらく、「新たなる方向性の発現」という人間の意識進化のありさまを、それぞれ個別のニュアンスで現したものであるのではないか。
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そういうもの(=新しい方向性の覚醒)がある、ということが知られていた。
人間にも、潜在化において、精神の変換能力がわずかにそなわっているという。
身体には高度な対称性が潜在化していて、そこに宇宙の法則が畳み込まれていると言われている。
その対称性を、身体をもちいて掘り下げていけば、そこに変換作用を働かせて、力の重心作用を、精神のバネのような力として取り出すことは可能である。
しかし、そこで問題なのは、そのようにして手にした特殊能力なり霊能力なり超能力なりが、さまざまな具体的な効能を発揮しつつも、その由来や働きの具体性を説明できない、という点である。
説明のしようがない。
なぜならば、そこにいまだ「観察点」が存在していない。
そのような意味で、精神の変換力の存在そのものはさして目新しいものではないだろうし、それを引き起こすための方向性のニュアンスがおぼろげながら察知されていたからこそ、(古代人のシンプルな感性の中で)それを現すシンボル群が用を果たしていたのだと思えるのだが、
それを具体的に観察し、記述することそのものはできてない。
それがたぶん、これから大々的に起きてくると思っている。
(陰陽や、氣の働きというものの存在は知られていたが、その具体性は観察~記述されていない。雲のように曖昧模糊とした状況ではないか。)
図:『扇―「性」と古代信仰の秘密を物語る「扇」の謎』吉野裕子 初版 1970年