表相をめぐって (その2)

「表相」は「表象」のニュアンスに近いようだ。

よってこれは、いわゆる“人間ゲシュタルト”の枠内となる。

空間にモノがあって、それを対象化する。

そういう意識のあり方。

潜在化しているのが「表相」であるとして、顕在化が「方向(方向性)」である。

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自分は体系的な思考が苦手なので、ヌーソロジーに関しても、

うまいところからビスケットを食べているという感じなのだが、

「交差」というヌーソロジーの用語がおろそかになっていたようだ。

これは基本用語で、「次元」というヌーソロジー用語と関係がある。

-引用-
●表相の交差(ひょうそうのこうさ)

ヒトが意識進化を行うときに、人間の外面に表相の観察を生み出させるための交差。真実の元止揚の対化が交差を起こすところに相当する。モノの内部と外部の境界の出現に対応する。カタチとしてはケプラーの星型八面体。世界の再生が行われるということ。
-引用-

引用は、難解な部分をはしょってある。

ヒトによる人間の内面への交差は、「下次元への交差」であろう。

次元をめぐり、下方や上方に、交差するということ。

たとえば、私たちの観察位置は、四次元空間にある。

それが、三次元空間としての時空に「交差」している。

交差に関しては「界面」ということにポイントがありそうだ。

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話を戻すと、潜在化が「表相の対化」。

これが覚醒を起こすと、「方向の対化」となる。

表相の等化においては、表相の対化が等化されてしまっている。

この頑強な等化の力をなんとかする必要があった。

そして、これがようやく中和されると、そこに表相の対化が顕れて、意識は顕在化をむかえる。

用語としては、表相が顕在化した時、表相の対化は「方向の対化」として生まれ変わる、脱皮すると考えていいのだろう。

「方向」という概念が顕在化のメールマークであり、それは「位置」をともなっている。

方向とは、進化の方向であるという。

神話的にいえば、真実の太陽へと鎌首をもたげる黄金の蛇の喩えがあるという。

それが位置をもっているというのは、その観察の次元が、覚醒しているということである。

検索してみよう。

-引用-
● 位置(いち)

精神構造において対化の作用が働く場所性のこと。精神構造を形作るために生まれている様々な次元境界。この境界性を空間構造としてフレーム化しているものが《イデア-理念》である。人間の意識においては、位置は、「知覚表象」「一つのモノという概念」「自己」「他者」「社会」「国家」「時空」などといった種々の存在論的カテゴリーとして捉えられている。位置は人間の意識においては外面として潜在化している。すなわち、人間の意識は基本的に位置を持っていない。位置を構成するイデアの全体性は人間の内面(四次元時空)においては諸元素として射影されてくる。
-引用-

対化が崩れているから、対象化ということが意識に生じる、ともいえるわけだ。

「国家」などとして、名前をつけることができる。

一般的名称である。

得体のしれないリバイアサンである。

「人間は位置が持てていない」というのは、「対化が見えていない」ということである。

そして、対化を観察できる唯一の方法がイデアである、という。

そのイデアとは、多面体の世界であるという。

多面体ははなっから、対称性の世界である。

対称性という尺度をもって、はなから対称的である対化の世界を観察できるということになる。

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余談。

「日本語の世界は“コト”の世界であるからして、実は、“モノ”を指し示すということができないのだ」。

モノとは、それが対象的なありさまであることを言う。

これに対し、コトは「対化」ということと関係があろう。

たとえば、「男女」は「モノ」ではない。男と女というコトである。対化である。

男が女をモノにする、というようなことは実際にはむずかしい。

結論的には、こうした特徴をもった独特の日本語というものがあるとして、それ以外の言語圏の人々は、「対化」「コト」を見ることができていないのか?

これを逆に言えば、日本語の世界が、ある種、原始的である、ということだろう。

より平易な言い方をすれば、素朴である、ということだろう。

上に引用した、「表相の等化」以前の、非一般性、もしくは、一般化以前の、文明レベルにとどまっているということではないか。

(実際に、シャーマニズム研究の学者の白川静は、日本社会にはいまだ、神話的世界にあると言っている。つまり、文明国家としての一般化のローラーが、かけられていない社会であると言っている。)

逆に言うと、日本人はモノ(=物質)を対象として指し示すことができない。

それをやろうとしても、どうしても、いわゆる「もの」という、純粋に物質ではない、コト的な不純物が付随してしまう。

もののけというやつである。

ヌーソロジーの場合は、そのような日本語としての「もの」というのは、コトの付随物ではなく、「奥行き」そのものである、と認識しているのだろう。

 

・参考ページ:「表相をめぐって (その1)」 https://goo.gl/ZfcRb