“表相の対化”の顕在化が、モノの外部と内部の同時性を担保する

とある舞踏家の公演を観た後、Hさんが“まったく空間が動いていない”と言っていて、自分はそれが分からなかったことを覚えている。そのことを他の人に伝えたら、“誰もわかっていることをことさらに言う必要もないのではないか”とゆるりと指摘されていた。

…どうなんだろうね、この“空間の動き”、女性の方がよく見れるのではないか。たぶん、今の自分だと、それがわかると思うんだけどね。舞踏家の身体の動きに隣接するような空間としての動きが。

それが“表相=見ること”の意識の中であるのニュアンスが、“表相の交差”としての、“モノの内部と外部の境界の出現”と関係あるのではないか、と。

これは要するに、モノが、その内部性と、外部性との、二つの境界面、つまり身体性をもっている、のニュアンスだろう。そしてまた、ここが重要であるが、それを構成する、モノの内部とモノの外部の空間的な実質を構成する“幾何学的な素材”があることを予測させるわけだ。

それが、“表相の顕在化”だろうと。(表相の顕在化とは、表相の対化としての顕在化を言う。)

●表相の対化(ひょうそうのたいか) 方向性の対化。自己と他者の関係を作り出しているものの本質。点の対化。顕在化において生まれる最初のカタチ。

“点”が対化すること。対として立ち現れるということ。これは、対象として一点だったものが、二つあることだろう。であれば、それを見る“方向”もまた“対化”していることになる。そのような関係に、“自己と他者”の本質はあり、

その自己と他者の対化としての本質が顕わとなる、顕在化するのを“位置の顕在化”だと。この位置は、すでに“4次元空間における存在の位置”となる。この次元での“見ること=表相”において、“表相の等化”の作用が生まれる。これが実は、人間の3次元的な“見る”の本体だということ。

その本体が、3次元的な表相を“解体”していくと、顕れてくるのだ、というプロセスが、“表相=見ること”の語をめぐる、表相の中和~対化の顕在化~交差、そして等化の、全体像であると考えられる。