“人間が歩く場合や走る場合は、体から重力を感じる感覚を消してしまってるところから体は始まってて”

“人間が歩く場合や走る場合は、体から重力を感じる感覚を消してしまってるところから体は始まってて”

重力を感じるというのは、下方ということである。足裏の感覚とか、内臓の重さ、筋肉の重さ、そういう内的な要素である。また、筋肉や内臓は、相互の擦れももっているので、そういう摩擦、ノイズ的なものもある。

そういう内的な要素を、見ないようにして、外側から、ひとつのモノのようにして、体をコントロールする、というのが近代的な西洋体育であり、これがそのまま、外部からコントロールしやすい体ということとつながっているということ。

体育教官の目からすると、そういうコントロールの連鎖からはみだしてしまう動きというのは、ひじょうに目立ってくるわけだろう。これはどうしても気になる。つまり、内的な動作。まあ、アクビみたいな動作のことだ。

“前後軸によって正面側に仮装の点を目でイメージして走るから、地球を面として蹴って走ってて、根っこがない状態(双子は感じれない)となってる。”

目の前に、仮想的な“点”をイメージして走る、動くことが、“3次元的”ということと関係している。

今は、体育的な身体が、クルマの運転ということに直結していて、体を動かすことがクルマの運転感覚と重なっている部分も大きい。摩耗したり故障したりすれば、交換すればいい、と。メンテナンスは専門家にまかせればいい、と。

“地球を面として蹴る”と、“根っこ”が失われ、“双子”が感じられなくなる。

ここは、独特の表現。

“瞬間性により、持続性が失われる”というような言葉のイメージもわく。

根というのは、角度ということと関係している。地面を面として蹴る時、その角度を、外側から見ているということだろう。そのことが、目の前の仮想的な点の設定とリンクしている。

双子の感覚は、むしろ、その根の、角度の中に入る、あるいは、角度というあり方を、事後的ではなく、ある種の“微分”的な係数として、つねに運動の中に組み入れるというような、“気づき”を必要とすることと、関係するのではないか。

角度とは、起き上がりであり、起き上がりの根というものが重要であるという認識がある。

“垂直性”というのは、まあ、そういうことであるが、垂直性は、そのような起き上がりの根の観察により、担保されるなにかであるということが言えているのではないか。