シュタイナーとエーテル体 毎日2時間睡眠を可能とするもの

シュタイナーの“エーテル体”や“アストラル体”という言葉は有名である。これはもともと、“神智学”から来ている。肉体があり、エーテル体があり、アストラル体があり、みたいな、ああいう図を見たことがあるだろう。

エーテル体に関して面白いと思ったのは、生命的な側面と、思考的な側面をもっているという点。エーテル体における生命感覚は、“リズム”ということと関係している。シュタイナーの人智学には“オイリュトミー”という舞踏があるが、これは“良いリズム”の意味だそうだ。

思考はリズムをもっている、ということ。これは、よく思考をする人は、そういう感覚をもっているだろう。“文体”ということとも関係するだろう。散歩と、思索というものが、似ているということ。リズムを介して、肉体の方に振れたり、思考の方に振れたりするわけである。

シュタイナーは、一年間、ほとんどの日を、講義に当てていたらしい。呼ばれた場所に行っていたらしい。つまり、一年中、旅をし、歩いていた、ということになる。他にいろんな仕事もあるだろうから、そうした激務をこなすために、1日2時間くらいしか眠ってなかったと聞く。

シュタイナーの著作は、たんなる読書ではなく、“瞑想”的な読書ができるように書かれているという。これはこういうことだろう。シュタイナーの思考そのものがエーテル体的である、リズム的であるということであり、それが、日本語に翻訳され時にうまく反映されないのではないかと考えられる。

シュタイナーが一年中、旅をし、歩いていたこと。エーテル体というものを重要視し、その生命感覚がリズムに関係し、そのことが“思考”にも関係しているということ。そして、瞑想するように読むような文章を書いていたこと。本人が書く時に、なかば瞑想していた、ということだろう。

瞑想するように文章を読む、ということが、シュタイナーによる作為的な工夫であるというよりも、シュタイナーのエーテル体のコンセプトを考え合わせても、鏡のようにして、書くリズムと、読むリズムとが、瞑想のように、トランスする、息のように相互交換する、ということなのだろう。

毎日2時間睡眠だということが考えられないと思ったのだが、シュタイナーのテーマのひとつに“霊界参入”ということがあるわけだ。死んでから入る霊界に、生きているうちに入るという、そういう体験のことである。そして、死ということと、睡眠ということは、類似の現象だとされている。

瞑想的であるということは、半分、睡眠的である、ということであろう。シュタイナーは、歩く時、講義する時、文章を書く時、オイリュトミーをやる時、半分、眠っていたのではないかと考えてもいいかもしれない。そう考えると、睡眠が2時間で済む、ということが、あり得る。

私もオイリュトミーをやっている時、眠くなって仕方がないと思ったのだが、これは講師の人も、教えながら“眠くて仕方がない”という話であり、そういう眠さとか、だるさみたいなものを、リズムによって喚起する、つないでいく、そういうのが意識的な意味での生命感覚なのかもしれないなと。