“点の対化”の顕在化とはなにか

●表相の対化(ひょうそうのたいか) 方向性の対化。自己と他者の関係を作り出しているものの本質。点の対化。顕在化において生まれる最初のカタチ。

“表相の中和”が“表相の対化”を作り出すということ。モノとして対象化される点に付着した、人間の歴史~社会的な意味の体系の総体が、剥奪されると、点は、“点の対化”というものとして、その本性を顕わしてくる、ということ。

その意味で、禅が“悟り”と呼ぶものは、この“点の対化”と関係しているのではないか。

禅では、自分の意識が、“観照の意識としての総体”のようなものに包摂されるというような、精神世界風の言い方をすれば、“光の中に包まれる”“光の中に入る”的な体験ではないか。しかし、それを光とか言ったり感じたりすることそのものが、表象化なわけだろうから、禅はそれも否定するであろう。

おそらく、自分の意識が点対象に向かう方向と、逆に、観照的な場そのものが、自分の意識に向かう方向というのが、“点”を挟んで、向かい合う形になっているのだろう。

(禅は、複数でやる。それは“観照の場”が、複数の人間の意識で作られるからではないか?)

ヌーソロジーの言う、“表相の対化”~“点の対化”の顕在化は、二つの方向からの、点をめぐるせめぎ合いにおける脱表象化にとどまらず、点そのものが“二つある”というところまで行く。この点が面白い。

これは単純に考えれば“精神分裂”を思わせる。単純には、精神分裂の症状に重なるであろう。言葉のニュアンスの問題ではあるが、“点が二つある”というのは、精神分裂と言える。これに対して、“点の対化”というのは、“点が双(ふた)つ”、双子のニュアンスなわけである。

●表相の対化(ひょうそうのたいか) 方向性の対化。自己と他者の関係を作り出しているものの本質。点の対化。顕在化において生まれる最初のカタチ。

自己と他者の関係というものが、もともと、点の対化~表相の対化としてあるもので、それは、点というものが双つ、双子としてあるのだと。そしてそのことが“4次元”という空間の形態でもあり、自己と他者という関係性の本質が4次元空間にあるのだ、ということになると言う。

そのような4次元空間における自己と他者の関係のあり方、双子として点があるというあり方が、“もともとの人間の意識のデフォルトなのだ”という点が重要である。

“点”というものに付着する意味をとことん漂白していって素の状態にすると、点が双つの点として顕れてくる、ということの意味合いが重要である。