点対象をめぐる考察

人間の認識は、モノをめぐっている。モノは点として対象化されている。この点対象としてのモノを“表相(ひょうそう)”と言う。(ヌーソロジーの用語)。

表相としてのモノに対して、その点的な対象をめぐり、さまざまな名前をつけて、人間は、そのラベルのレベルを規定している。ヌーソロジーの場合は、それ以前の、モノがモノとして在ること、点が点としてあること、の、“認識の原初”を再検討するということ。

これは、意味の次元というよりも、“所作”の次元に関係があるのではないかとも思われる。つまり身体性の問題をはらんでいるのであろう。モノをモノとして、点を点として、その認識をそれに差し向けているのは人間の所作だということでもある。

点に付着した膨大な意味の体系、その総体を“漂白”するということ。漂白すると、“素”の状態の“点”が現れる。すべて剥ぎ取って、その素の点を剥き出しにすることが、“顕在化”ということに関係していると思われる。

点=モノ=表相。それに付着した意味を剥奪することを“表相の中和”と呼ぶということ。(“位置の顕在化”に先だって、“表相の顕在化”というものがあるということになる。)

●表相の中和 人間の最終構成から顕在化に入るところに生じる。人間に表相の働きを失わさせること。すなわち、表相の顕在化を起こさせ表象化をやめさせてしまうこと。表相の対化を作り出すための上次元の調整作用。

(“人間の最終構成”とは、人間という意識のあり方が終焉し、それがすっかり変容してしまうこと。そのためには、人間における表相の意味付けの解体が必要となる。)

対象物に賦与されたあらゆる意味付けを剥奪すること。これを“脱表象化”という言い方をする。脱表象化されて、対象としての点が点として剥き出しになった時に初めて、その対象を見ている“人間の意識のあり方”そのものがハッキリと顕れるという点がポイントである。

そうした現れた意識のあり方そのものが“位置”である。その意識を“観察”している人間の観察する意識の構造性そのもの。観察、観照の“位置”ということ。

仏教、禅などが関係しているのであろう。禅で、脱表象化していって、モノ=点が、意味を剥奪され、それそのものとして剥き出しになる、そのプロセスを意識で追っていって、ある時点まで行くと“悟り”が来るということだろう。

自分の意識が、観察~観照の意識そのものと、重なる。あるいは、観照の意識が、自己の意識、つまり観察する意識そのものを包み込んでしまう、というような逆転があるのだろう。

ヌーソロジーの場合には、悟りという言い方ではなく、“点の対化”というものが顕在化してくる、発現してくると言い、ここが面白いところ。