N用語をめぐって

・点の対化

通常の感覚では対象物は“点”のようにある。

「点の対化」というのは、そういうひとつの点が、ふたつに分かれ、それぞれ、自分と相手とで分割される状態を言う。

ものが点としてある時、それをめぐり、それぞれの人間が、あーでもねぇ、こーでもねぇと、いじくりまわす対象物であるに過ぎないが、

「点の対化」として、しっかりと自分と相手とに、点が、ひとつの関わり合いとなった時、そこからあたらしいできごとが始まるのではないかな。

点が、それぞれ、自分と相手により、分割されて認識される。

分割といっても「1/2」というわけではないだろう。

1と1、あるいはおそらく、「-1」のふたつの平方根「√-1」、虚数としての「i」。

点の対化は、ここに出てくる。

「●表相の対化(ひょうそうのたいか) 方向性の対化。自己と他者の関係を作り出しているものの本質。点の対化。顕在化において生まれる最初のカタチ」。

 

 

インターネットの時代。情報化の時代。

どうなんだろうか。

ピコピコ光るモデムでモノクロの液晶画面でワープロ通信をやり始めたあのころ。

草の根の掲示板。そして巨大掲示板ニフティーサーブ。

情報は進化したのだろうか。

たんに情報を、もののように、対象物として扱っているのならば、

なにも変わっていないのではないか、という気がするが?

「私には、そんな「点の世界」はなにも見えていません。」

そんなユニークな存在になれていたら、楽しいね(笑)

点-対象物という煩悩にふりまわされる世界が終焉するだろう。

ずいぶんと、たいへんな、さわがしい世界にいたもんだね、と(笑)

 

 


学生時代はどうだったろうか。

クラスでは、なんといっても「センスの良さ」が第一基準で、音楽やってるやつらが、圧倒的に先陣を切っていた。

絵の才能というのもあるが、やはり音楽だったよね。

それは今でも変わらないんじゃないのかね。

本を読んでいるやつはダメだ、などと言われたりしたもんだ。

「音楽には意味はない」。

なにか意味をめぐって、あーでもねぇ、こーでもねぇと、この「自分」というたいそうな生き物が、オタッキーに1人関わる。

そんなあり方がダサイ、というニュアンスだ。

まあ、今でもやっている、こういうことだよ(笑)

「●表相の中和(ひょうそうのちゅうわ) 人間の最終構成から顕在化に入るところに生じる。人間に表相の働きを失わさせること。すなわち、表相の顕在化を起こさせ表象化をやめさせてしまうこと。表相の対化を作り出すための上次元の調整作用。」

表現、・・・表象という言葉があるわけだが、その表象が無効化する。

それが表相の中和だと言う。

それそのものに意味といったものはないといった風情の音楽、ロックが、圧倒的な力をもっていたあのころのニュアンスからは、とくに違和感はない。

スピーカーからツェッペリンの怒濤のような音が飛び込んでくる。

十代の新鮮な感性においては圧倒的な体験だ。

あのような音楽の強度を体験として生きようと試みることは、

日常的に「禅」の世界を生きようとすることと近いのではないかね。

「お前らの表相なんて、ぜんぶ吹き飛ばしてやるさ」。

 

 


たとえば音楽体験として体験される意味の無効性が、

どこに人間をいざなうのか。

「●超心点(ちょうしんてん) 潜在化における重心の位置。人間の次元における反覚醒と覚醒の境界。表相の中和が起こるところ。定質を性質に変換させるところ。覚醒させる力を送りだすところ。モノの界面。モノと皮膚が接触する部分。覚醒においては「重心」となる。」

ものの界面ということだ。

音はまさに、スピーカーと空間、振動する空間と皮膚、体を包む体表そのものをゆさぶる、

そんな体験としておとずれた。

その時、僕らの意識は、銀河の果てまでとばされてしまっていたのかもしれないということだ。

-引用-
銀河系の渦の中心点は超心点ですか。

はい、中和を作り出す次元の元々のもと。
-引用-

からっぽの空間で音のようになって、ただ響いている。

しかし、そこで終わってしまうわけではない。

その次の展開があるみたいだね。

 

画像:マシマ氏

 

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