表相をめぐって (その1)

「表相(ひょうそう)」の概念を考えている。

一般性、社会的自己、といったタームは、「表相の等化」に属している。

-引用-
●表相の等化(ひょうそうのとうか)

他者の表相をユークリッド的線として見えさせ、その線を自己側にもコピーさせるということ。結果的に人間の位置を三次元の中に投げ込む契機を作り出すことになる。人間の意識に客観性を作り出させる原因となるもの。モノが見る者と見られるものに完全に分離し、見る者としての空間が見られるものとしての空間を失ってしまうこと。人間の意識が進化の方向を見失ってしまうこと。人間が存在しなくても世界が存在するという考え方を人間自身が持ってしまうこと。精神の内面が顕在化を起こすところ。近代的思考の誕生。
-引用-

客観性、一般性をベースとした、認識のあり方。

まず他者の目線を先手に置いた心のあり方。

近代的自我という私のあり方。

これを前提として生きているので、疑うことがなかなかにむずかしい。

とくに、学校教育で強く擦り込まれている。

自分の場合は高1くらいまで優等生だった。

高校2年で遊びだして成績が落ち、そのうち東京に出てフリーターになった。

ワイルドな連中がたくさんおり、自分の生きる活力といったものが彼らにまったく太刀打ちできず、「どうしたらいいのか」と考える毎日である。

先ほども、ネット麻雀をやったが、やつらの記憶がよみがえってくる。

池袋のTで徹マンをやり、こてんぱんに箱を喰らう。

勉強もダメ、麻雀もダメ…ああ俺は…

「表相の等化」に関係している。

他者の視線を生きること…自分の答えは正しいか、成績はどうか…

生きるエネルギーを奪う側面が強い。

これに対し、「表相の中和」というものがある。

単純に、「表相の等化のキャンセル」の意味となる。

-引用-
●表相の中和(ひょうそうのちゅうわ)

人間の最終構成から顕在化に入るところに生じる。人間に表相の働きを失わさせること。すなわち、表相の顕在化を起こさせ表象化をやめさせてしまうこと。表相の対化を作り出すための上次元の調整作用。
-引用-

表相が等化されてしまっているので、表相の対化が見失われている。

それが「対象知」の特徴である。

生命的な感覚は、対象との直接的なやりとり、応答、響き合いである。

響いたという時、対象がすでに対象ではない。

そのためには、脱対象化、脱表象化が必要になる。

それが表相の中和である。

表相を中和させ、一般性としての言葉の作用を弱めれば、生命の応答力、響き合いは自ずから増していく。

表相の等化という、人工的な枷(かせ)が取れて、そこに「表相の対化」が顕れてくる。

(自分は点棒を数えるのをまったくやめてしまった。計算をごまかされることもあったが、そのかわり、手にとった牌が体に響くようになった。打てるやつと一目置かれるようになった。カミとシモ、トイメンにターチャがいる。しかしあくまで自分の「正面」は「牌」である。)

-引用-
●表相の対化(ひょうそうのたいか)

方向性の対化。自己と他者の関係を作り出しているものの本質。点の対化。顕在化において生まれる最初のカタチ。
-引用-

ネットで気功師の「dawn(ダウン、あけぼの)」というハンドルネームの人に出会った。

「無思考」ということを言っていた方で、直接話したわけではないのに、二、三回やりとりするだけで次々に不思議なことが身のまわりに生じた。

無思考をやれば、言葉の作用を逃れるので、脱表象化は容易となる。

しかし、そのかわりに「ボケ」の問題が出てくる。

ボケボケになってしまい、いわゆる「頭の弱い人」という扱いを受けていた時期がある。

まあ、それもひとつの手だ。

ただし、ヌーソロジーの場合は、修行うんぬんではなく、あくまで「次元交替化」の流れの中での、ある意味、必然的な「人間の意識の覚醒」として、「表相の対化」が顕在化してくる、というストーリーである。

その意味で、ボケの問題…考えるな。感じろ、はあまり関係がないかもしれない。

(いったん頭の中のガチャガチャを追い出して、「シンプルな思考」をするにあたっての大掃除としては有効かもしれない。)