表相をめぐって (その3)
「表相」の項目の最後に以下がある。
-引用-
●表相の調和(ひょうそうのちょうわ)
表相が覚醒自身を交差し、ヒトの内面の表相の上次元へ出ること。すなわち、表相の中和の上次元。中性質の内面に生まれる次元。人間の内面の意識では生物が作る生態系として見える。生物と非生物の生成は交替化における上次元と下次元の生成に関係があるということ。
-引用-
この表相の調和というのが興味深い。
「表相の中和」の“上次元”が「表相の調和」である。
それが、なんと、生物たちの「生態系」と関係があるのだそうだ。
???となってしまうのだ。
僭越ながら、私の考えを書いてみたい。
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人間の知覚や感覚において、意識が覚醒することにより、「方向性」がもたらされると、脱表象化していく。
言葉の世界から、カタチの世界に入っていく。
そのことにより、対象化の認識の作用が減じていく。
(※「知覚」のニュアンスは脳~神経系に近く、「感覚」のニュアンスはより肉体の深部感覚寄り、であろう。)
その時、対象化の意識操作そのものはどうだろうか。
意識があるというのは、ほとんど、意識を何かに向けることと同じだと思うが、
そこに対象化の意識操作があるとして、表象化の意識回路が、「表相の中和」によりキャンセルされておれば、対象化の認識はうまく行かなくなる。
その時、対象化は成就しないが、そのかわりに、そこに「意識を向ける」という方向付けの行為が残るのではないだろうか。
もっと言えば、そのような方向付けの作用が、純粋に“抽出”されるのではないか。
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経験的に、このような意識の方向性にもとづき、それが対象化キャンセルされた際に引き起こる、“意識の根”の部分に生ずる“生命力の勢い”のようなものを実感する。
「本能の全開」という有名な言葉があるが、あれと関係するのではないか。
(本能は動物的なものであるが、人間の中の動物本能全開と言う時、そこになにがしかのパラドクスが生じている。つまり、本能自らが、自らを通して、本能そのものを止揚する、というニュアンスである。それをどうやって“全開”させるのか。)
表相の中和は、表相の対化を生み、これは方向の対化として顕在化する。
これが、精神であり、光であるということ。
それは、「真の太陽」へと向かっている。接続している。
そう言うしかないだろう。それが光であるならば。
そこで、詩人が、「光の通った跡のグレー色の筋道」という言い方をしている。
肉体的には、その部分に着目せざるをえない。
イデアに影はないとして、イデアの裏側、裏イデア、…あるいはイデアの死角のような部分があって、そこが、肉体となんらかの接続をもっている。
「顕れた光は、人間にとりまぶしすぎるともいえる。人間は、光のかよった後のグレー色の透明な筋道をたどることができる」。
光としての「そのもの」が、肉体側に折り返ってくる方向をもっているということだ。
その筋道が構成する先の世界に、新しい動物と新しい生態系の世界が広がっているのではないだろうか。
参考ページ:「表相をめぐって(その2)」https://goo.gl/COJLyL