双子と多面体 エーテル体など

双子同士の幾何学 https://twitter.com/oauein/status/1160057981901217792

双子の世界が“多面体幾何学”で表すことができるということ。多面体における、それぞれ1組の対称性、“面を点に変換”“点を面に変換”に関係があるのだろう。

対象的な思考から脱すること。なにかについて話すことをやめる、という時に、身体の方に行く、というあり方がひとつ。他に、多面体幾何学の思考の方に行く、というあり方。

多面体の双子は、互いに面と点を変換したところの、正六面体と、正八面体との関係などを言うものだろう。正四面体は、同型の多面体が双子のカップルを作っているということ。

 

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シュタイナーの幾何学では、この、一つの球面に触れ合うかたちで、正四面体の中に正四面体が内包されて行く関係を“エーテル体”というものの構造モデルとしているらしい。エーテル体は、生命的なものと関係している。

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視覚により距離を遠くもたせてする認識のあり方は、こうした触れ合いの感覚から遠ざかるので、エーテル体的な、生命感覚が失われると考えてよい。また、あえてそれをやって抽象的な空間を作ることで、物理学は、宇宙を一般モデル化し、その中で論理化を進めたと考えられる。

農研究家の藤井氏は、体験上、その距離を三メートルくらいと考え、速度としては自転車、あるいは自転車でも少し速すぎる、とのことである。それ以上速いと、エーテル体がついていけない。エーテル体は客観的な存在ではなく、“知覚する”ということと関係している。身体感覚的なものである。

基本は“歩行”ではないかと思うわけだ。人間=二本足で歩行する動物、ではないか。歩く足の間で、エーテル空間的なものがつむがれていると。そしてそれが延長されて、たとえば、機織りとか、カゴ編みとか、昔の、職人的な動作に拡張されていた、と。生命的な空間が持続されているということになる。

シュタイナーは、この肉体に重なって存在するエーテル体のある場所がエーテル空間であり、これが“4次元空間”であると説明している。この存在を忘れて、3次元的な、もっぱら対象物として距離をもたされた認識の中に認識の基盤をもたされているという現代人のあり方。

現代の常識が、科学的な、物理的な空間認識に置かれているからには、とうぜんそうなるだろう。しかし、誰もが物理学を理解しその世界観を生きているわけではないので、むしろ、自動車と関係が深いのではないか。自動車を運転する経験の中で、、エーテル的な空間から振り切れた認識の世界に入る、と。

そこで近代性を獲得してきている、というルートではないか。物理的な空間の広がりは、学問的であるよりも、モータリゼーションと関係が深いという予測が成り立つ。(昔、クルマに乗る女性は希少であったが、今は誰でも乗る。そこで、大きな変化があったような気がする。)

いったん、生命感覚的なものと切り離された場所で、感覚を拡張する覚えると、今度は、そっちの方で社会性がもたされてくる。モータリゼーションの次に、コンピュータリゼーションが連動していると考えるべきで、どちらも、四角い枠の中から世界を対象化して覗き込んでいる。仮想的な世界のあり方。

問題は、それに“飽きる”かどうかだろう。飽きない人はそれをやり続けるだろうが、どこかで飽きると思うわけだ。ふつう、女性の方から飽きるものである。そして、女性が他の分野に移動を始めると、それを男たちも追いかけるかっこうで、文化というものが変動していくというのがよくあるパターンである。

その意味で、たぶん女性たちは“なんだこの程度のものか”と、飽きてきていると思うのだが、今は、プリクラ的なものに行っているのですかね。フレームいじりというか。フレームは界面的な領域で、生命感覚がある。そこに顔とか化粧とか、そういう近しいものをつなげて楽しもうとしている。

その、フレームいじりという部分が、より、根本的な方向に行くと、“3次元空間”そのものを、いじる、4次元の方にいじる、という方向に、行くかもしれない。そんな予兆を、ゲームがプリクラになり、彼女に同伴した男子がああいうものに参加するという風潮に感じたりするわけだ。