本当の私としてのリンゴの内部空間に侵入することが生きながらにして死ぬことに同義(141行、29ツィート)

個人的には、とくに、ヌーソ○ジーの知覚論に、いまだ、自分の感覚とのしっかりとした整合性を見ていない段階であるが、“奥行きの子供たち”に出てくる、“奥行きと“見ること”について”の話に関して、このようなことが書けるのかな。

ヌーソ○ジーにおける“奥行き”とは、“知覚”の空間のことである。これに対して、“幅”は、奥行き空間に対するところの幅空間は、対象化~客観化~観念化~抽象化された“尺度的な空間”としてある。計量化された世界。“奥行き”は、知覚~感覚そのものの空間である。

“奥行きはあくまで「見る」空間であって、「見られる」空間ではないってことでもあるね。つまり、見えている世界そのものが本当は主体=自分だってことだよ”。p.288

“見られること”が幅である、と。世界を見ている自分という存在が、客観化されたモノと同列の、“見られている自分”として想定されている。“本当の主体”とは、そのような“見られている自分”の位置でなく、“見ていることそのもの”、言い換えれば“見えている世界そのもの”、

さらに言えば“ものそのもの”にある。(このものそのものが私自身というところまで来ると、わかりにくくなる。)

あと、ヌーソ○ジーの“言い方”の問題があるね。語り口というやつ。“つまり、見えている世界そのものが本当は主体=自分だってことだよ”といった言い方ね。こういう切り口を、面白いと考えるか、新鮮だと考えるか、飛躍だと捉えるか。

(自分が思うには、シュタイナーの人智学の場合に、すらすらと読める文章ではなく、“読むことが同時に瞑想体験である”ような書き方が工夫されているらしい。どうりで眠たくなるわけだわい(笑) ヌーソ○ジーの場合、“思考体験”というのを重要視しているのだと思う。)

人智学では、死んで霊界にいくと、自分の精神の位置と他者の精神の位置とがひっくり返ると言う。具体的には、自分が他者に対して行ったこと…その心的な現象…が、そのまま自分に折り返ってくると言う。そういうかたちで、まず死後の人間は、人生の総体を、他者という立場から再体験することになる。

この死後の霊界における“反転”のメカニズムは、“見えている世界そのものの方が、実は、主体=自分なのだ”という、ヌーソ○ジーの指摘する“構造”と似ているのではないか。

霊界に入り、人間の魂が一定の試練を経過するその中で、“見られている世界”と“見ている自分”とが“反転”するということ。その現象のひとつに、“自分の行為が、他者からの行為として反転して体験される”ということがあるのではないか。その他の現象もまた“反転して”体験されるのだろうか。

リンゴを見ること。リンゴに語りかけるようにして見ること。そのような体験が、死んで後、リンゴからの語りかけにより現れてくる、と。逆に、“見られる”ようにして、つまり、ただ一つの客体として、リンゴを単なる物質として見る体験においては、霊界的反転の際に、“なにも起こらない”。

これは端的に、家庭菜園でリンゴを育てる、などの体験だろうね。リンゴをかじってああ上手いと心から思った時に、その体験が、霊界で反転して、“ああ上手い”という喜びが訪れるであろう、ということとはまた別に…美味しいリンゴに感謝すればなお良し…

自分でリンゴを育てる。そして収穫し、調理し、おいしくいただく。人にふるまう。そういう体験であれば、霊界に行ってからの、リンゴからの“魂の贈り物”みたいなものは、その見返りとして豊かなのではないか。

また、霊界はたんに死後の未来としてあるだけではなく、睡眠後の夢の中で日々訪れるものであるということであるから、かような“リンゴの贈り物”を、リンゴへの愛情をもった人々は、日々、生きることの滋養として、得ているのではないか。

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ヌーソ○ジーに話を戻すと、“つまり、見えている世界そのものが本当は主体=自分だってことだよ”という話は、自己と他者という存在の位置の、反転した“構造”の話である。

その反転の構造が、見る、見られている、という想定の中で、より明確にイメージされるということである。

で、具体的に、例えば、“見ているリンゴそのものが、実は私である”というような言い方があり得るとして、それがなんなのだろうか。それが構造の指摘だということは分かるが、リンゴという具体性に落とした時に、“リンゴが私だ”という言い方に、なにがあるのだろうか。

まあ、ひとつは、“禅の公案”のようなもの、ということが言えるかもしれない。“なんだろうな、それって”ということ。まあ、ある種の思考体験である。

“リンゴが私であり、人間の意識進化とは、本当の私としてのリンゴ、その、リンゴとしてのモノそのものの、内部に入っていくこと、侵入していくことだ。それが物理学における“素粒子空間”ということの本当の意味合いなのです。”

みたいな言い方をヌーソ○ジーはするのではないかな。

、“人間の意識進化とは“生きながらにして死ぬ”ことである”…という前提も踏まえる必要はあろう。。

ともすればギョッとするような“言い方”ではないかと思うのだ。“私であるリンゴの、その内部に侵入していく”というのは。で、どうなんだろうね。こういう言い方は。

話し方の問題、あるいは切り口、コンセプトの問題であろうが、…どうやってヌーソ○ジーというコンセプトを調理し、ふるまうか…自分が思うには、ヌーソ○ジーはまず、“素粒子構造”へ誘う、という方向付けがあると思うんだよね。そのコンセプトの中で、こういう言い方が為されると。

これに対して、上の人智学の話は、霊界ということを信じる信じないの問題は別とすれば、話として分かりよいということはある。今日、“霊界”に関する知見も、精神世界の本棚にあたれば、なにほどか容易に得られる。

(シュタイナーはシュタイナーで、その時代に合わせた内容、言葉をチョイスしている。そしてなおかつ、当時、急速に台頭していた科学主義の人々に“隙を見せない”ように気づかっている。しばしば、シュタイナーの言葉がまわりくどいのは、そのためだとも言われている。)

“霊界”を言った時点で、“神秘主義”になるということは間違いない。人智学の場合は、理論的なアプローチを志しているので、“神秘学”という言い方をするとのことだ。

“生きながらにしての霊界の参入”ということが人智学ではひとつの大きなテーマとなる。霊界参入、境域の守護霊、自我、そういう言葉が出てくる。

ヌーソ○ジーは、“霊界”という語を使わない。物理をやっている人は、“霊界”の語が出た時点で参加できなくなるだろうね。とくに学者さんは。ヌーソ○ジーにおける“素粒子空間”は、人智学における“霊界”のニュアンスと重なっているのではないか。

人智学では、“霊界”とまた別に、より理知的なコンセプトもある。4次元空間論や、他の数学的なモデルを使って説明される。素粒子量子論は、時代的な問題で、言及されていないとのこと。検索すればいくらでも出てきます。)