「人間の外面」と「気」の関係

-引用-
人間の最終構成とは、この進化の方向が逆転する境位に「時(とき)」が熟し始めているということ。それによって、人間の外面は付帯質の内面となり、人間の内面は付帯質の外面へと相転移を起こす。付帯質の内面において精神(霊性)は開花を見る。
-引用-

人間の外面⇒付帯質の内面への反転。

人間の内面⇒付帯質の外面への反転。

これが“合わせ技一本”で、「人間の意識の覚醒」がもたらされ、「精神の顕在化」となるということ。

「人間の外面」とは「見ること」である。=奥行き。

「人間の内面」とは「見られること」である。=幅。

これは、「そのもの」ということと、「あとからそれがどうのこうの」との違い、とも言える。

「付帯質の内面」というのが「身体空間」ということになっている。

「物体から広がる空間」としての「物質空間=付帯質の外面」に対して、「身体から広がる空間」としての「身体空間=付帯質の内面」ということ。

これは、物質空間=三次元空間に対するところの、エーテル空間=四次元空間である。

顕在化に入ると、まず、身体空間がはっきりと現れてくる。すると同時に、それとの違い、差異として、物質空間というものが弁別されてくる。あらためて、一つのパターンとして明確に認識されてくる。身体と物というものが、まるで違うのだということが、はっきりと自覚化されてくる。

このような過程が、「バイスペイシャル感覚」であり、四次元的な、双対(そうつい)性が現れてくる。

(「人間の外面」という言い方は、「見ることそのもの」というニュアンスでの“外面”として、捉えればよいのではないか。つまり、面や表面のニュアンス。逆に、内面は、見られることの、対象化された想像の世界。つまり、直接的ではなく、間接的な、屈折した影の部分である。「見ることの“陽”」に対して「それについて思うことの「陰」」。見ることは印象そのままであり、見られることは屈折したもの思いの世界である。背中(陽)とお腹(陰)。体表と内臓の関係ともいえる。)

・・・・・・

-引用-
人間の内面の意識とは幅認識に拠点を置く物質意識のことを言うが、人間がその歴史の中で母(自然)を凌辱し、父(神)を殺し、彼らの亡霊に取り付かれながら文明を築き上げてきたこともまた進化だということ。人間の外面の意識とは、その反映として細々と霊性の命脈が保たれてきたということ。
-引用-

さらっと書かれた文章ですが、「母(自然)を凌辱し、父(神)を殺し」とさりげなく書かれている中に、どんだけの歴史が重畳しているんだ、という話もあります(笑)、

「人間の外面の意識とは、その反映として細々と霊性の命脈が保たれてきた」の部分に注目したい。

人間の意識とは、“潜在化の次元”である。その潜在化にあって、“顕在化の次元”への反転を可能とする四次元空間的な意識の要素は、「人間の無意識」として、ひそかに裏で活動してきた。

(※潜在化=全宇宙の活動における潜在化ということ。陰陽で言うと、宇宙の陰的な活動の部分。そこでは地上の人間が主役である。逆に、宇宙の陽的な活動においては、天上界における宇宙創造的な知性(=精神)が表に出てくる。)

そうした裏の活動としての神秘主義的な修行、あるいはいわゆるオカルティズムが、「人間の外面」としてあったということなわけなので、それを“テコ”にして“反転”するということ。

(「人間の外面」とは「そのもの」なのですから、意味以前です。だから、意味の体系では扱えず、とうぜんのことながら、隠秘学=オカルティズムとなります。)

(それに似たものとして音楽がありますが、これは意味以前というよりも、そもそも言語ではありません。非意味です。)

(シュタイナーであれば、著作の『いかにして超感覚を獲得できるか』が、「薔薇十字の神秘学の修行法(=オカルト修行)」を下書きにしている、とのこと。)

(自分は、シュタイナーの薔薇十字的な修行法は、さっぱり合いませんでした。自分の前世はたぶん中国人だと思います。)

-引用-
最初はまるで外国語同然だったが、そのうち付帯質や精神の意味が分かるにつれ、その位置関係が見え出してきた。この内面・外面関連で最終的に分かった重要な点は二つ。人間だけが進化の方向を逆に持っているということと、内面は外面を次の領域の内面へと変えるように運動して行っているということ。
-引用-

自分の場合は、二十代に、「気の修行」に着手しました。

神秘家の秋山真人さんの主催する『ボストンクラブ』という雑誌に、厳新という有名な気功家が特集されていて、その異質なインパクトに驚きました。

私は1963年生まれのいわゆる“オ◯ム世代”ですが、この世代の人はたいがい「気功」はやってみたことがあると思います。

ずいぶん前から言われていることですが、気功ブームも衰退してひさしく、知らない人も多いと思うので言っておきますが、「外気治療」というのは、ほとんど金銭目当ての中華パフォーマンスであったということです。

気は物質的に扱おうとすると(例えば外気治療30分2万円など)、精神的におかしくなります。なぜならば、気の本質が、物質的なものではないという単純な理由ですね。

子供のころから下半身を鍛錬した武術気功家が、パフォーマンスとしてやっていたのであり、気功の本質は外在的なものではなく、内在的なものです。

気というのは科学的な実験観測で“対象化”されるようなものではない。それはヌーソロジーで言うところの、「付帯質の内面」、つまり「身体空間」の意識に属するものですから、“四次元的な双対(そうつい)性”をもっており、“対象化”ではなく、“その中に入って”しまわないと分からないわけです。

それをヌーソロジーでは、「自らの観察をたずさえて観測行為の中に入る」というような言い方をしている。

自らの観察込みで事物の認識に当たるということですが、この、観察が対象化に重なって二重化されているというニュアンスが、実際にはけっこうむずかしい。

「対象化と観察」あるいは「行為と思考」というものは、「客体と主体」あるいは「見られるものと見るもの」として分離し、互いに対峙しているのですから、それを合わせ技一本とすることは容易ではないです。

結論から先に言えば、「三次元空間」においては不可能だということです。

それを可能にするのが「四次元空間」であり、「行為と思考」「対象物と観察」の対峙、つまり対称性、ヌーソロジーで言うところの“対化を等化”する、ということが可能になるということです。(=対称性を回転させる。)

そのような独特の四次元空間的な観察法というものが、物理学の「量子論」においては数式として理論化されているのだとされる。素粒子理論における「対称性の理論」であるとのこと。

・・・・・・

「気」というものの実体は、そういう四次元的なものです。

古代人はそれを分かっていました。

「気」の字体の原型は「气」ですが、これは「乞」の字と同じです。

「乞(こ)う」は、「乞い求める」の意味で、動作としては、相手を抱こうとすることです。抱くというのはつまり、抱き合うということです。単独で抱擁ということはできませんよね(笑)

「私がそれをどうしたこうした」という、一方的な、悪い言い方をすればストーカー的な“対象化”の意識のあり方においては達成できない性格をもっている。

(三次元空間の中にばかりいるから、今の人間は目つきが悪くなっていますよね。)

つまり、上に述べた「観察と行為の二重性」といったニュアンスをもっています。

気は、合わせ技一本としてての何かであり、それがある種の“半身像”として把握されていました。

じれったい感覚だから、その感覚をベースとして、相手との抱擁という全体性を、求める、希求するためのエネルギーとなる。安全地帯(玉置浩二)の歌ではないですが。

そして、そのことを、神秘主義的な“裏”ではなく、堂々と“表”でやっていたのが、日本人の伝統だ、ということが言われています。

神秘主義や神秘学という理念化のスタイルであるよりも、行為の次元として、生活の空間へ落としていくというやり方だと言われてます。

「乞い=恋」としての歌の世界がひとつ。

「手乞い=相撲(他、柔道、空手など)」などの格闘技の世界。

他、もろもろの芸能、技能など。

ヌーソロジーで「付帯質が前にある日本人」というのが言われていますが、…他の国の人は付帯質が後ろにあるそうです…上に述べたような意味での「気」における「二重性」に関しては、中国の対象化~理念化された「気の哲学」のあり方よりも、日本人の心性において展開されてきた生活の中での実践的な行為の方に、むしろうまく表現されているという評価が、近年さかんに言われています。

ヌーソロジーがユニークだと思うのは、そうした人間における「気の世界」、つまりヌーソロジー風にいえば「人間の外面」…「付帯質の内面」へと反転するところの…が、“潜在化の次元であるに過ぎない”とみなす点にあります。

ヌーソロジーが重点を置くのは、潜在化から顕在化への反転ですから、重点はむしろ、「人間の外面」としてのさまざまに具体的な気の世界であるよりも、それを「付帯質の内面」というものに反転させる“方法論”のことで、それを「変換作用」と言い、それを専らする者を「変換人(トランスフォーマー)」と呼んでいます。

“気の修行”そのものは、「人間の外面」として潜在的な可能性としてたたずんでいるのですが、それを“テコ”として、顕在化…精神の顕在化…の方へと反転させることができるということです。

 

画像:気(气)=乞。

 

f:id:hahaki889:20171103085809j:plain

 

参考ページ:Twitter https://goo.gl/SQzLqA

「光と闇。前と後ろ。後ろで世界を覆い尽くしてしまえば、光は闇の中の光へと堕してしまう。有機体(可視光)とはまさにこの闇の中の光のこと。この闇の中の光を認識の光へと変えること。これが「前」の顕在化ということになるだろう。後ろの中に前を見るのではなく、前と後ろを分離すること。」