対象点のヌル化により精神倒錯をまぬがれることができるか
ジョンレノンという生い立ちが複雑でコンプレックスのひじょうに強い男が、それをバネにして表現者として立ち上がり、最終的には、日本女性のヨーコさんと出会って、“あんたはそのままでいいのよ”ということになって、そこで落ち着いたと。
“レット・イット・ビー”とは言っても、それはテーゼであって、その体現はやはり、“身体性”なのであり、ヨーコさんは、“そのままでいいのよ”であれていた。しかもドラッグ無しで、だ。日本女性としての伝統的な身体性の体現者であったのだろう。いいとこのお嬢様であって、へんな屈折をしていない。
ヌーソロジーという思想体系の中心。自己と他者との存在の関係の位相を、ロジカルに描き出そうとするコンセプトをもつ。
概念ツールとしてのヌース用語は多岐にわたり、どの角度から侵入するかは個人と好みとなるだろうが、自分はとりあえず、身体~感覚・知覚からのアプローチということで、
・中心点
・超心点
・重心(重心点?)
・内心
・共性
・重性
の、用語から説明してみたい。
“中心点”とは、3次元空間認識における、対象化された点対象のことである。そこに置かれた“名前”をめぐり、人間の3次元空間的な意識はうごめいている。近代的自我のあり方は、この中にある。
“超心点”は、そこからの抜けだしの出口である。これが、皮膚とモノの界面にある、という点が面白い。
たとえば、人間は道具を使うのだが、職人は道具と一体化する。その時、道具とモノの関係は、ほとんど、自分とモノとの界面となっているのではないだろうか。そこに“宿る”のが“芸能の神、宿神(しゅくじん)”だと言われる。
“重心”は、“顕在化した超心点”として定義される。芸能の宿神は、“シャグジ”という古代の“石神”と関係しているが…民族学による…これらは“音”の世界と関係している。シャグジや芸能の問題をメインに扱った“精霊の王”の著作も、“S+K”音という、“音”をめぐる。
(“S+K”音の世界は、裂け、咲き、坂、岬、境、酒、底…などとして展開されている。)
私見では、“中心点”は、皮膚感覚が、局所的な触覚として、視覚と結びつくあり方を言うのではないかと。
スマホの画面がある。指の先で触れる。眼で、ボタンを確かめる。そういう動きに代表される。
逆にいえば、“中心点”としてのあり方が、そのような動作や意識の運動のあり方に集約されているのが、スマホの世界ではないか。
“超心点”は、局所感覚としての触覚が、“音”あるいは“音響”、つまり振動や響きの感覚と結びついて、“体表感覚”として全体化~全面化したあり方を言うのではないか。
これは、職人的な奥義の世界とむすびついており、“響きを知る”という点に、奥義がある。
問題は“重心点”である。重心における重心点は、かんぜんなゼロポイントであるという。よって、これは、対象化ではなく、対象化というあり方が放棄された状態のありようだろう。
知覚的にはおそらく、見ることと、響くことの、連動、連携、みたいな世界なんだろうと思う。これは、超心点的な、皮膚感覚を離れている。
私はおそらく、“眼球”ということと関係があるのではないかと思っているが、原則的には、“顕在化における知覚”は、物質的な身体の次元ではないとされる。
言い換えれば、“死の身体における知覚”、つまり、霊的な知覚ということになる。
(夜の夢の眼球振動は、その霊的知覚の、肉体に反映された現象ではないだろうか。)
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近代的自我としての“中心点”という対象認識のあり方。これが構成する社会が“共性”となる。
共性のニュアンスは、モノとして、モノを対象認識として、共有することが、共同性の礎となる、の意味だろう。逆に言うと、それを離れると、それを構成できない。
ロックスターのファンクラブに入ったり、流行の商品や、お金の話をしたり、ということ。
詳細は省くが、
“形散。同化によって生まれる付帯質の観察次元。形質における中和の働きを完全なものに変えること。”
とあるのは、カタチは“霊的な視力”によりもたらされるものであるから、その影響を完全に封じて、物質的な次元に意識を限定づけること、だろう。
ヌーソロジーでは、モノを認識する意識そのもののカタチの観察というものを重要視するので、そのカタチが“形散”するとは、そのままであれば“精神崩壊”をまねくということ。(精神が意識そのものの観察をもたらしていると考える。つまり、そのルーツは、霊的な上次元にある。)
“形質における中和の完全化”も同様のニュアンスで、形質とは、意識のカタチであるから、その生成機序が、中和=相殺され、無効化されること。これは“形散”のニュアンスと同じである。
近代人は、そのままでは“精神崩壊”するので、それにもちこたえるために、モノ認識にすがりついているということになる。
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モノ認識による構成が、完全化することが、近代の時代的な特性であるとして、ある時点でそれが“飽和”する。
それをヌーソロジーは、モノという認識の限界、臨界点としての、“量子力学的パラドクス”に見いだしている。
それはひとまず置くとして、
その“飽和”が為されると、“人間の最終構成”と言って、人間の認識の再編成が為されて、人間の意識は“顕在化”へと向かう。
(具体的には、超心点としての出口が、そのまま顕在化では重心となるということ。)
その時、逆に、従来的なモノの意識に封じ込められた近代的自我の意識レベルは、“内心”という領域に入る。
これは、ある種のプロテクトが外され…“上次元の調整作用”と言う…近代的自我におけるその本質としての“精神崩壊”、あるいは“精神倒錯”が顕わとなっていく方向を示す。
精神崩壊から逃れるために、モノに向かう近代人であるが、そのモノ認識のあり方がすでに飽和しているので…量子力学的な限界性…ある主の無限循環、トートロジーに陥り…消費しても消費しても満足しない…つまるところ、“ホスト殺人”的なところに行かざるを得ないのではないか。象徴的には。
これに対して、“重性”は、“重心”と関係をもち、“ゼロの力”とある。
重心(重心点)は、対象としてのゼロ点である。
人間の認識は、対象としてのモノをテコにして、関係をとりもっている。その支点としてのモノの位置が、ゼロ化されるというニュアンスである。
これは逆にいえば、その支点が逆方向、つまり、対象ではなく、手前、つまり自分の位置にもってまわることを意味するだろうから、対象点のゼロ化は、“自己のモノ化”ということとなる。
モノと、自分とが、同一化するということ。“モノが自分だという認識のあり方”。これが、ヌーソロジーの言う“覚醒”のニュアンスだと言われている。覚醒した意識が、“顕在化の次元”に入っているということ。
顕在化における“重性”と、“共性”との違いは、“表相の交差の有無”だとされる。
共性は点対象なわけだから、それぞれ、対象の手前側に住んでいて、意識は交差していない。重性においては、対象点がゼロ化、ヌル化するわけだから、共性と逆方向に像を結ぶかたちで、“表相の交差”が引き起こるということなのだろう。
これはなんらかの“波動性認識”のようなものではないだろうか。先に述べた“重心”と“視覚と聴覚の連携”との関係。
音=波動性の認識の世界に入る、ということが、顕在化の次元であり、霊的な次元であり、死の次元だ、ということになるのではないか。