等化のイマージュ 他者性の否定

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ヌーソロジーでは精神を「等化」の力として定義し、その形態を空間的には円、時間的には回転として見る。このとき、位相は無数の差異を意味している。差異の中で最大のものは普通「対立」と呼ばれるが、対立関係は円の直径部分に現れる。ヌーソロジーではこれを「対化」と呼ぶ。
 
この「等化」を単なる無機質な回転としてイメージしてはダメだよ。たとえば、色彩の世界で対化のところに補色関係にある赤と青緑を置くとしよう。すると、等化は色彩の多様性(色環)そのものを意味することになる。
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ふつうに考えると、この「対化の等化」としての、色彩的なグラデーションの世界は、「他者のコミュニケーション」のスペースではあるまいか、とも思うのだが、

ヌーソロジー~ドゥルーズの場合、「他者世界」というのを否定するのだよね。

真の他者とのコミュニケーション(=コミュニカシオン)は、人間の無意識世界で為されており(潜在化の意識次元)、それは、人間の世界認識においては具体的な実現性をもたされない、というように説明される。

ここらへんが、独特だと思うし、ひじょうに違和感がある点でもあるのだが、

「個体性」というものを突き詰めると・・・これは動物の群れ社会に対する人間の精神の独立性としての生物的進化に他ならないが・・・他者との関係性すら否定されてしまうということ。

まあ、ふつうに考えると、自閉症スペクトラムアスペルガー的な精神状況を連想してしまう。

もしかして精神世界ってアスペルガー傾向の人が多いんですか(笑)

自分はどちらかというと発達障害的にはADHD傾向だと思われ、(アスペルガー傾向もあり、父親ADHD、母親≒アスペルガー)、逆に過剰に他者を意識してしまうタイプなので、

論に取り組む際の性格的な相性みたいなものもあるかもしれない。

※若いころから「他者とのコミュニケーション」ということを命題のようにして考えてきた。しかし、今もってそのコミュニケーションがなかなか上達しない自分にとり、「他者との関係そのものが不可能」とするNの人間観は、独特ではある。

(そもそも日本人自体が、他者やコミュニケーションの問題をほとんど意識化していませんね。そういう中でコミュニケーションを過剰に意識すれば、それはかなりのノイズですよ(笑)  でも昔、ロックの世界で愛やコミュニケーションの必要性が叫ばれていた時代がありましたけどね。)

(もちろんNの場合、「顕在化」ということを考えなければならない。つまり、素粒子ベースにおいての独自構造の展開と、そのプロセスを経ての、精神の“原子化”、そして、個体が原子として成就したところの精神同士の関係性のあり方、といったこと。以上簡略化すれば、原子に成って死ななくなる、というような話だ。)

参考ページ:Facebook 「等化のイマージュ」https://goo.gl/zqB3qg