ミテグラとは何か 私見


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信用できる財貨貯蔵所に乏しかった原始社会では、人の掌中こそはもっとも安心な場所だったにちがいない。それだから掌の中、つまり 「手クラ」の中に持たれるものは「テクラ」と呼ばれ、「タカラ」と転じて大切な財宝を意味するようになった。

それが神に捧げられるものには「ミ」の美称がつけられて 「ミテグラ」 となったと推測される。祝詞(のりと)のなかに数多く出てくる「ミテグラ」は神に捧げる財貨の意味である。
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吉野裕子さんの論考は、女性ならではの“身体性”を前提とした、直観を前提としながらも、ご自身の中の“身体的思考”の能力が今ひとつで、それを脳的な思考~論考に代行している点で、ものたりなさが生ずる。

人の手の中がなによりも信頼のおける安全な場所で、そこに神へ捧げる供物も、収める、という考え方。

これはいささか陳腐ではないだろうか。

古代における身体の思考は、身体の直接性の思考であり、もってまわったような解説は、適さないケースが多い。

私は、ミテクラの原型、原像は、“産婆の手”ではないかと予測する。

金属の鉗子で新生児がひっぱり出される姿に、違和感を感じるのだが、産婆の手が、産道になかば入り込むようにして、新生児を掬い取る。そして、産みの神に掲げ、感謝する。そのような姿が浮かぶ。

その時、産婆のしなやかでやわらかな両手に収まった新生児は、ちょうど、子宮の中で胎盤をベッドにしていた時のような、安定感、安心感がもたされているのではないだろうか。産婆が上手に取り上げた時、新生児は泣き叫ばないと、産婆の本に書かれていた。

生まれた赤ん坊を両手で掬い取る神聖なる産婆の手が、赤ん坊にとり最も安全な場所としての“手クラ~ミテグラ”である、というだけにとどまらず、要するに、それが、共同体のすべての成員、メンバーにおける、いわば心の故郷、魂の故郷としての、場所、=ミテグラではないか、ということ。

その観点から、産婆のミテグラ…古代の産婆は巫女でもある…が、神に対する御幣(ごへい)として捧げられるというのは…御幣と書いてミテグラとも読む…赤ん坊を掬い取る産婆の手が、そのまま、神への捧げものとなる、というあり方であり、

私はこれは、“舞踏”的だと思う。

神聖舞踏としての、所作が、そこに表れていると予測する。