菊理姫。“菊の理”とはなにか。“掬う”という動作、所作との関係。
昨日調べていてわかったのは、菊理姫=ククリヒメの“ククリ”が、“クク=漏れ”のニュアンスをもっていることだった。
なぜ、花の菊のことや、菊理姫のことを調べようとしたのか、発端を忘れてしまったが、この“菊理=ククリ”の語は、ひじょうにうまくできている。
つまり、“菊理”と言った場合、“菊の理”であるから、“菊”そのものに、なんらかの理法が潜んでいると示してあると考えられる。そして、菊という言葉、あるいは大菊そのものは、中国からの伝来であるから…文献的には平安以降だという…大陸由来の先進的な文化に関する知識も必要となる。
菊と、“掬う”の語が、関係しているということ。白川しずかの辞書をみれば、“菊~掬”の解字をたどり、そこにこめられた、古代からの中国人の文化を識ることができるが、昔の日本人はどうだったか、という話にもなる。
ただし、その場合に、昔の人たちが、今の我々のように、多くのメディアを行使していない、という条件を考える必要があって、今の人間とほとんど変わらぬ思考能力~脳力のある昔の人間が、ひたすら“言葉、文字”という世界をターゲットにして、“表現”を為したり、あるいは記録を残そうとした、
ということを考えねばならない。つまり、今の我々が想像を絶するような、言葉と文字に対する念入りの操作…言葉と呪術は大きく関係する…が為されているということだろう。(その代表例が、万葉の詩人である柿本人麻呂の歌の暗号を扱った“柿本人麻呂いろは歌の謎”だろう)。
先にTwitterで書いたように、漢字での“菊”と“掬う”は、意味の連続性がある。中国で、菊は霊性の高い植物とされていて、菊の花を手折る、…あるいはおそらく、大菊の花を、下から手を合わせて掬うように観賞した…その花の霊力に感応する…のではないかと予測させるのだが、
身をかがめて、両手をあわせた掌(たなごころ)で美しい大輪の菊の花を掬い取るような“所作”が、“菊~掬う”の文字に託されているということではないか。
“菊を身をかがめて掬いもつ所作”に関して。
(辞書“字通”より。)
古代の天才家人、人麻呂の雅号は“猿(さる)”。この猿のキーワードを端緒として、おそるべき暗号の解読が為される。