ミテグラに関する吉野裕子さんの意見 (再掲)

日本の古代における、あるいは祭祀的な空間における、神聖な所作である“ミテグラ”について、“扇―「性」と古代信仰 吉野裕子”で言及されている。

ミテグラの語に関する民族学の分析は、

“「ミテグラ」とは本来神の降りたまうべきところを指した言葉である。「ミテグラ」は手にとって移動できる神の座の意味である。したがって 「ミテグラ」 には神に捧ぐる財貨の意味はない。本来は大樹の下に神をまつりつづけていたが、新しい土地にその神を勧請する場合に、ミテグラを手にする者が祭の主導者となる。”(柳田国男の説)

といったもの。

これに対して、吉野裕子さんの説は、

-引用-
くりかえし言うように「クラ」は単にV、あるいは凹みの型に対する名称である。 それだから「テクラ」は「手クラ」で、両方の掌を物を容れるような形に合わせたときにできる「V」あるいは「凹み」を指した言葉である。”

そしてその後にその「凹み」の中にいれられたもの、内容物を意味するようになったと考えられる。容器の名称が内容物の名に転ずる例としては水をいれる用器、「■(もい)」が飲水をさす「もい」にも用いられることなどがあげられる。

信用できる財貨貯蔵所に乏しかった原始社会では、人の掌中こそはもっとも安心な場所だったにちがいない。それだから掌の中、つまり 「手クラ」の中に持たれるものは「テクラ」と呼ばれ、「タカラ」と転じて大切な財宝を意味するようになった。

それが神に捧げられるものには「ミ」の美称がつけられて 「ミテグラ」 となったと推測される。祝詞(のりと)のなかに数多く出てくる「ミテグラ」は神に捧げる財貨の意味である。

“柳田説の「「クラ」とは本来神降臨の場所をさした語であり、したがって「ミテテグラ」には神への供物の意味はない」 ということに対して私は疑問をもった。

…それでは、 「「ミテグラ」は手にとって移動できる神座の意味である」はどうだろうか。私は両掌に形づくられるくぼみのなかに、神聖な木が持たれる場合は移動可能の神座となる、と考える。したがって、先生の第二説を肯定するのであるが、

その根拠は先生が、「クラは神降臨の場所を意味する」というところから出発しておられるのに対し、私は、両手によってつくられた“くぼみ”に神木をつきさせば、陰陽交合の形になり、これは神のみあれの道をひらくものだから、小型の神社、あるいはあるいは御嶽(うたき)が両掌の中に形づくられる。

それゆえに神の顕現を期待できる場所となり、神座と信ぜられたと解釈する。したがって柳田先生の第二説を肯定するがその根拠は異にするのである。
-引用-

…とある。