顕在化未満の時代の中で、ヌーソ○ジーの身体論へのアプローチが潜っていったのではないか (190行)

ヌーソ○ジーは、ヌーソ○ジー言うところの“人間の意識の顕在化~精神の覚醒”における、身体性を扱っているだろう。そして、それは2013年以降に、広範に起きてくるできごとであるとされている。ところが、ヌーソ○ジーそのものは、それ以前…1990年くらいから…続いているのである。

そんなこんだで、感覚の具体論として話したとして、感覚的には理解できない内容を、伝えようとする、という、苦しい展開があったはずである。

私見では、身体論の見地からは、ヌーソ○ジーは、初期~中期のものが面白く、後になるほどにつまらなくなる。)

そのことが、今現在、“ヌーソ○ジーは構造論だ”ということになっている背景でもあるのだろう。その構造論の中心に、量子力学や、素粒子論の、物質世界における対称性としての構造論がある。

構造論として話せば、構造として、論理的に理解可能なわけである。そして、その論拠を科学的にたどれば、理論~学問としての信頼性を得ることもできる。

そういう流れの中で、ヌーソ○ジーの研究者として参加があったのが、砂子氏であり、Φさんであり、S博士、などである。そして、そういう仲間に囲まれておれば、自然、構造論になっていくのではないか。構造的な整合性、照応性を詰めていくことになるわけだ。

とくに、Φさんはプログラマー~SEの出身である。コンピュータープログラミングの世界は、“類型=モデル”を設置し、広く対象事物の“論理性”を“論理的形式性”、つまり形式論理として抽出し、その“集合”としての位相を、モデルとしての“階層構造”に対応させる…集合論的な数学操作…

というのが、その仕事の本質である。簡単にいえば、ビジネスとしてのプログラミングの対象である“ある業務”の内容が、プログラマーにとり“なんの関心もない”ものであったとしても、プログラマーはそれをやるのが仕事だから、それをやるわけだ。

そしてそのモチベーションは、形式化、つまり論理的な形式性の抽出であり…これは煮詰めると数学的な形式性の抽出に漸次、接近していく…その形式化された“手続き”が、“類型=モデル”として格納されるそれを見つけること。あるいは、すでにそれがある、ライブラリを参照すること。

(実際には、職業的なCGの絵描きが、自分の絵を描くために、プログラミングして独自ツールを開発するという暇はなく、すでにある…販売されていたり、その会社にストックされている“ライブラリ”の中から、それを、関数として引っぱり出して、参照するわけである。)

“手続き”の形式化は、プログラミングの行程の流れ図であるフローチャートにより図式化される。“仕事”をする本体は、コンピューターなわけだから、プログラミングとは“信号待ち”をしている行列式だと書いてある。

“仕事”というのは、“身体性”をともなっているものである。その人間の身体性から離れて、“形式化”されたプロセスは、“CPUプロセッサ”にはおいしい食事であるが、それを実務として執り行っているプログラマにとっては、実はおいしくもなんともないわけである。給料を得るためにやっている。

そんなこんだで、実質的には、プログラマは、“身体性”を失ってしまう傾向をもつ。その作業目的が、他者側に寄り…その“プログラム”は本来、それを使う者自身が、自らの“身体性”に拠り、より使いやすく工夫して開発するのが理想的である…しかしそこに“形式化”という、

“身体性の一般化”が為されているので、プログラマは35歳くらいで限界をむかえる。それは、体力・知力的なものであるよりも、そのような意味での“不自然さ”…つまり“身体性”からの遊離によるものだろう。

そのような仕事を、Φさんはやめたわけだ。退職したわけだ。そして、“身も心もデジタル”となった自分の心身を、立て直す作業に入った、と。テーマとしては“数学に身体を入れる”というような話だったと記憶している。

純粋数学の世界が、数という実体を離れて、“集合=群”という位相的な空間の世界のあり方、…それは数の実体としてのあり方~振るまいというよりも、集合と集合との関係性のあり方という点に、その中心性が置かれていくということ。

そのような、数学という学問の世界の傾向が、物理学という学問のあり方を超過したわけだ。実体としての対象物を追いかける物理学が、対象物という認識のあり方、モノの観察というコンセプトを超過して、“関係そのものとしての空間のあり方”を“純粋に形式化する”そのあり方、方法論を見つけた時に、

形式論理の世界の中では、純粋数学が純粋物理学よりも、上位に突き出るということが起こった。このような学問的な状況は、そのまま、ヌーソ○ジーの研究での、Φさんの優位性につながっていると考えることができる。)

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ちなみに、私は、数学も物理学も苦手です。どうしてこういう話を知っているのかというと、当時、音楽誌のROから撤退した人たちが、PCの世界の方に移動するということがあった。またこれは、パーソナルコンピューター(マイコンと呼ばれていた)の誕生そのものが、実はそういう状況を背景としてして、

…ロックやカウンターカルチャーと関係がある…Iさんは、まさに米国のそういう連中、つまり、ビートルズの音楽を聴きながらマイコンで遊んできたような連中と、メール連絡を取り付けながら、コンピューター誌に投稿してきた経過がある。

音楽は“意味”から遠ざかろうとする。これはジャズがそうだろうし、ロックでは、歌詞や世界観、意識のあり方が、意味性から遠ざかるという傾向をもつ。

この意味というのは、社会~文化的な意味、つまり、いわゆる“コード=秩序”のニュアンスであるが、それはたんに“逸脱”ということだけではなくて、ヌーソ○ジーの言うところの“反転認識”ということと関係があると考えられる。

…具体的には、ビートルズの“Revolution”や、“turn on
”などの言葉。

“君が毛沢東の写真を持とうとしているならば、君は、誰に対しても、何に対しても、“革命”なんて起こせやしないさ”

毛沢東毛沢東のバッチという、“対象物”ではないと。そうではなく、そのように“対象化”されるという、モノのあり方、あるいは意識における現象の、その“関係性”のありさま。その部分に引きおこる“革命”なのだと。その革命=反転の、意味合いの本質は。(revolution=回転)

数学の、集合論のアプローチが、…つまり、対象として固定されるモノ、あるいは“数の実体性”ということではなく、それがある“場所”、その在ることの、“関係の位相”が問題なのであり、またそれは、その位相を覗き込んでいる自分の意識すらも、そのような関係の射程内に含み込むものである…

数として観念されるひとつの対象=実数とはなにか。その、数として自明とみなされる…“1つ”が“1つ”であること…その先験性とはなにか。その問題に入っていくと、“対象”が、“数”の問題として考察される深みに入っていくということ。

そして、そこで“身体性”というあり方…“数を数えること”…と交差してくることもまた自明となる。

そういう、数学者とか、哲学者なんかが、考えるような、哲学的な思考、ものごとの前提を問う思考を、ふつうの人もやるようになるというのは、ひとつ、“音楽の変質”というものが要因としてある。歌詞の“意味”の世界に対して、“音”の無意味さ~強度が、先行していくということ。

当時のフォークソングやニューミュージックに対して、そういうなにかについての音であるよりも、音そのもの、音のかたまりであるようなロックが、特別の時代的な意味合いをもたされていく、というのは、そういう流れだと説明される。

ヌーソ○ジー的な世界観からしても、理論的~構造的な思考が詰められるほどに、身体的な思考というのが、立ち上がってくるはずである。ヌース用語で言えば、“定質=男性的”な思考に対して、“性質=女性的”な思考といったものが立ち上がってくる。

これは、定質が性質としての“反映”をもつ、というヌース用語なわけで、性質に反映をもたされた定質は、定質と性質で“対化”という関係を構成する。この“対化”という関係のあり方が、ヌーソ○ジーの基本である。

ヌーソ○ジーは、論理的、構造的、図式的なことばかりやってきたのではない。“身体的”なアプローチをやっている。これは、時間をさかのぼると、資料としてたくさん出てくる。

ただ、予想するに、それが“うまく行かなかった”のだね。

身体というのは具体性をともなうので、具体的な事例を出して説明していくわけだが、それを受け取る方の身体や意識が、“顕在化”や“覚醒”や“反転”や“生きながらの死”というものをなにほどか体験しておらねば、話は“通じない”だろう。

結果、その内容を、相手側に寄せていかざるを得ないだろうが、その時に、いろいろと問題~齟齬が起きてきて、“これはうまくないな”ということになったのだと思う。つまり、かつてのヌーソ○ジーにあっては、感覚の具体性をとりあつかうことにあって、いろんな問題が生じてくる、との負の認識があった。

これは、最上さんの“原初舞踏”を例に取れば分かる。ずっとそれをやってきて、しかし、さっぱり理解されていない。たまたま最上さんに、体力が無いので、ヌーソ○ジーにおけるような“悪戦苦闘”が為されていないという話ではないだろうか。

そのような顛末もあって、ヌーソ○ジーにおける身体の具体性が、イデア的な構造論における、サブのような位置になっていった…オマケとも言う…のではないかと予測する。