蛇が象徴するもの 鎌田東二の考察 (『憑霊の人間学』)
鎌田東二の著作中の蛇に関する考察が面白い。
-引用-
出口王仁三郎が、ふだんは蛇がとぐろを巻いたように髪をぐるぐる巻きにして、スポンと櫛を挿してとめておくわけですね。腰のあたりまである長い髪です。神事を行うときはそれを抜いてパサッと垂らす。(『憑霊の人間学』p.95)
-引用-
この櫛の話は“虚軸”と似ているのではないか。
髪の毛は、“多くある”ことの象徴物でもある。
そのたくさんの髪の毛を、ふだんは“実軸”としてそこにとどめ、固定している。
そして、ここぞという“反転”の意識において、それを上方に引き抜く。すると、そこに虚軸としての見えない櫛、…それは蛇の顕現となるのだが、それが立ち顕れる。
・・・
-引用-
シャーマンは男でもない女でもない。両義的な両性具有である。そうした両義的な存在というのがまさに蛇なんです。蛇は象徴的に女性原理をあらわしたり男性原理をあらわしたりする。男根を象徴したり、女陰を同時に象徴したりする。自分の尾を飲み込むウロボロスの表現もそういうことです。(『憑霊の人間学』p.95)
-引用-
蛇は男根を象徴するとともに、とぐろを巻けば女性器を表すことになる。
一般的には、両性具有性こそが、蛇のシンボリズムの特徴であるということ。
形態の多様な可塑性とも言え、1本の線のかたちに似る単純な蛇の形態が、さまざまなかたちに変化する。
これは、紙、平面による三次元的な造形の思考にとぼしかった古代人にとり、貴重なイメージの源となっていた。
そこに、人類の神話的な記憶をともなう、生きた高次元幾何学といったものが展開されていたということになる。
(古代において紙が貴重であった。したがって平面を素材とした三次元的な思考が貴重であったが、これに対して、今の私たちは、それを当たり前の前提としている。世界という平面を用いて、さまざまな高次元世界をイメージの中で創造しているのだろう。トポロジカル宇宙。)
・・・
-引用-
女性が結婚式のときにかんざしをするのはもともと呪的な意味があったんです。櫛も同様に、女性の魂を留める、くしけずり、髪を束ね、その中心を挿すような呪物だったわけですね。その櫛を入れる箱の中には、輝く金色の不思議な小さな蛇が入っていた。(『憑霊の人間学』p.107)
-引用-
言葉は、“一”を指向している。辞書的であり、ひとつの物や事象に、ひとつの名称や概念が対応する。それをひとつのものとして対象化し、一般的に抽象化する作用である。
逆に、髪の毛は“多”であろう。おのおのの身体は個別的であり、一般化しにくい。いまだ医療技術の世界はオーダーメードが普通である。
少なくとも、自分の身体に関して一般化してほしくないだろう。人と同じ入れ歯に自分の欠けた歯を合わせるわけにはいかない。
そういう身体の、髪という、多いパーツの、しかも、櫛を抜き取った乱れ髪の状態とは。
古代、男も女も長髪であり、それを櫛で止めていたらしい。
もちろんそれは、生命力の象徴でもある。
・・・
“表相(ひょうそう)”のイメージと、“多と一”の世界とが重なる。
また実際に、表相に対する説明文や図式と、古代の蛇の呪術世界においてスタンダード化されていた価値観とが重なるような気がする。
さまざまな形式や見立てとしてほとんど無限に展開されていた蛇のシンボリズムのバージョンの中で、ひとつの中心を成すのが扇である。
そしてそれが、シンボルとして展開される蛇の、かたしろ、成り代わりであるともいう。
その中心は、多と一の、照応構造となっている。
円と三角形がかたちづくる幾何学パターンである。
意識におけるいわゆる“無限遠点”は、さまざまなパターンがあるだろう。
なぜならば、その人の意識は、その身体において個別性に富むからだ。
ある人は、視線の先にそれを見、ある者は足の裏にそれを見る。
世界が平面のようであれば、それが垂直方向に収束するリーマン球とリーマン平面のごとき“∞点”があるといい、またそれは、平面を人体の体表にたとえれば、それはふだんもっとも気づきにくく、いわば無意識化されている足の裏にその位相を求めることができるであろう。その二重化された∞点は、足の裏に隠れているということになる。
それは、脱皮する蛇と、脱皮した蛇という、新旧ふたつの蛇の脱皮の様態であり、それはいわゆる「死と生」のように無限に繰り返される。
それはすなわち、2本の足、2枚の足裏の、歩行のリズムでもあろう。
7歳を過ぎて後、幼児の時間感覚は、松果体リズムとしての生命リズムから、時計的な時間の尺度に変わっていく。7歳で松果体が生理死を迎えることによる。
そしてその時、生命リズムは、人間の歩行リズムとして潜在化していく…
そういうことではないか。
私たちの生活やおこないをほんとうは基礎付けている、舞踏的なリズムとして。
(足をもたない蛇は、体全体がひとつの足、あるいは履き物、ワラジなどに喩えられることがある。それはすなわち、歩く目的としての足ではなく、足そのもの、歩行そのものとなっている。)
図:表相
図:美保神社の蝶形の扇