ヌーソロジーと目の関係

“視覚”というのは、ヌーソロジー的には“低位の知覚”なわけだから、“視覚論”もまたその次元をめぐるものだろう。

-引用-
人間の五感において視覚が最も次元が低いのでしょうが、その他の感覚についてはどのように考えればよいのですか。

視覚、味覚、嗅覚、触覚、聴覚の順となります。
-引用-

ヌーソロジーの思想の経緯をたどるとすれば、発案者であるミスター2013ことH氏の思想背景が気になる。ミスターは、音楽で大学を中退してしまった人である。ロックでドロップアウトしてした、とのこと。“ロックタウン”博多の出身である。博多はヤ○ザが多く、ロックが盛んである。

(H氏はヤ○ザは大嫌いとのこと。私も嫌いであるが、博多はしかし、多いだろう。大衆にとり身近な存在だとされている。新潟では、されほどでもない。遭遇するのは港でロシア人となにか取り引きしているのに遭遇してあわてて退散するくらいの時だろう。ヤクザ同士の抗争なども、まず見られない。博多は違うだろう。)

大きく、プログレッシブロック→パンクロックみたいな、流れの時代だろう。ピンクフロイドを聴く。そして、…あれはなんだ、さらば青春の光の、…検索では、映画の原題が“Quadrophenia=四重人格”というザ・フーのアルバム(1973年)。そういうものも出てきたという流れ。

ミスターが1956年生まれであるから、1973-1956=17歳で、イギリスと日本とのタイムラグはあろうが、だいたい、そういう時代だということになる。

“パンクロック”というのは、“視覚”だと言われている。視覚的なインパクトである。暴力性がパンクなのではなく、暴力における可視性が、パンクの表現の手法に含まれているという見方である。暴力的であることがパンクではない。

暴力の専門家であるヤ○ザは、しかし、暴力を滅多に行使することはない。しかし、暴力に手慣れており、興奮の最中となる暴力の中にあって、冷徹にそれを観察する能力をもっている。だから、相手を怒らせて、そこを観察する。本気で怒った人間には、さまざまな隙が生まれる。

ヤ○ザは確かに恐ろしいが、学問的には、もともとは“芸能者”という枠に分類されるらしい。ヤ○ザは、暴力にともなう所作、言葉、口上を技芸として扱う。興行とは興奮であり、興行を運営するためには、興奮する心理の観察の技術が必要となる。

あまりにも有名な、パンクロックの象徴であるシド・ヴィシャスの暴力であるが、ああいうのも、情動の発露という側面もあろうが、ドラッグによって獲得された冷徹な身体内部の観察力があって、あの種の暴力~パフォーマンスが為されていると考えた方がいい。

シドは、思われているほどにはバカではない。あの人たちはかなり頭のよい若者たちであったわけだ。不良でも、ひじょうに頭のいい者がいる。勉強をする集中力がないだけで、頭はすごぶる良い者は多い。やはり、ミシマ的なコンセプト、肉体的な迷路を自分で作って、自分ではまり込んで行ったのだろう。

アメリカのライブでの有名な、怒ったシドがベースを客の頭から振り下ろすシーン。…とうぜん、急所を避けて、できるだけケガのないように振り下ろしたはずだ。ああいうのは、変性意識にあるからこそ、できる芸当であろう。)

ヤ○ザのいれずみが怖い。あれも“可視性”である。最短距離としての暴力性の可視化としての効果。速い、というよりも、直接性であり、それはまた、“皮膚と目”ということにも関係しているだろう。

やはりパンクの象徴である“安全ピン”。皮膚に刺された安全ピンは、痛みの可視化である。あれも、痛みという感覚表現の伝達の速さを超えて、“直接的”なインパクトがあるというのは、パンクの表現技法に特徴的な、“直接性=無媒介性”に関係していると分析され、皮膚+目の組み合わせに同じ。

…以上、ことさらに、ヌーソロジーの表現に、目、見る、可視性という要素があるということの中に、表現の時代性といったものがあるのではないかという分析でございました。

(H氏のいちばん好きなロックバンドはビートルズであるからして、当然、楽曲とともに、ビートルズの映像~映画体験というのがあるんだろうなと予測される。もちろんYouTubeのない時代ではあるが見ているだろう。“ビートルズ”には“すべてが含まれていると言われる。

つまり、ハードロックもあれば、パンクロックもあるわけだ。それだけの才能があったバンドであると分析されている。また、それだけのものを内包する体力~精神力が、とくに、リーダーであったジョン・レノンにあったということなのだろうと思われる。)

 

f:id:hahaki889:20190721114335j:plain