最上さんと更地との関係

舞踏家の最上さんの“私の身体史”を読むと、ただごとではない、最上さんのご苦労がしのばれる。そこに“民族学”的なテーマが出てくるわけではないのだが、以前読んだ“神に追われて 谷川健一 ”を連想した。

“神に追われて”では、沖縄の若い女性が、土地の神様、御嶽(うたき)の神様に目をつけられてしまい、さんざんな目にあった末に、巫女になる覚悟を決めるというストーリーとなっている。

弟さんとの対談“身体のリアル”の中に、おいたちの風景が出てくるが、家の隣の大通りで、ダンプカーの往来による騒音と、砂ぼこりの話が出てくる。つまり、東京の都心部における大規模な埋め立てや、宅地造成の時代である。

広い範囲を更地(さらち)にした時に、遺跡なども出るが、目立つのはやはり“古井戸”ではないだろうか。古井戸は、歴史をたどるとひじょうに古い場合があり、ある種の霊場である場合もあるだろうから…たとえばそこで雨乞いをしていたなど…“粗末にできない”という認識が生まれる。

最上さんの育った大森という土地は、太平洋側では最大級の漁港のある漁師町であったとされる。母親の踊りのお弟子さんの場合もそうだが、漁師町では、古い儀式としきたりと、身体性が残る場合が多いと思う。大森も、かつてはそういう土地ではなかっただろうか。

そういう場所では、当然のことながら、最近まで、古いスタイルの盆踊りや、祭祀の形態が残っていたと思うのである。祭り、祀りというのは、気持ちの問題であるから、人間が活き活きとそれに関われば、神様もまた、活き活きとそこに残ることができるということだろう。

そういう土地を、広い範囲でならしていく。更地にしていく。そこでは、多くのトラブルもまた発生した経過があるのではないだろうか。

端的に、その土地を追われた土地神はどうだろうか。精霊たちはどうするだろうか。これは通常、“巫女”の身体を求めると思うのだ。あるいは、巫女がすでにいないならば、より巫女に近いような、意識~身体をもつ、女性たちをさがし出して、そこにいったん逃げ込むと思うのだ。

そしていつか、その土地の神、水の神らは、その女性の身体を借りて、いにしえの儀式、祭典、祭場を…“さいじょう”と入力して“最上”が出てびっくりした(笑)…復活せんと願うかもしれない。