カタとしての行為と、漏れ

メンヘラの方々の行動パターンをTwitterで観察させていただいて、興味深く、ま

た笑ってしまうことがあるが、自分も似たところがあるので笑うのだろう。

あれもダメだ、これもダメだ、できない→自分はダメだ、という思考パターン。

…自分も午前中、“俺はダメだ”パターンに突然入りかけましたが、だからどう

なんだと。よしんばダメだとして、さらに自分でダメだと追い打ちかけても、ま

すますダメになるばかりでまったく意味がない、と。

 

できた、できなかった、よしよし、ダメだ。こういうパターンになっているので

はないか。で、たとえば、年寄りが、あれもできない、これもできないというふ

うになっているが、彼らはしかし、“自分はダメだ”なんて、言っていない。そ

こらへんだろうと。

 

なにかやっている。なにかやっていますが、できていて当たり前状態で進んでい

るということが言えている。その意味では、要するに“恵まれて”いるんですよ

ね。あれもできない、これもできないという状況であれば、“どこまでできて、

どこまでできないか”というような、冷静な判断、観察が、“板について”いる

はずですね。

 

だから、あれもできない、これもできない、自分はダメだ、というパターンの思

考でいれる人というのは、意外に軽症の人で、ほんとうにダメな人は、冷静に、

どこまでできるか、どのあたりからできなくなるか、ということを、観察するこ

とが“板について”いるはずです。

 

対象化して、ダメだと言っている。ひとつひとつの行為を。そして、その行為の

総体の主体である私を、総合して“ダメだ”と判断する。…すごく、おおざっぱ

ですよね。その見ることのあり方、観察の仕方が。もし“ダメ”が当たり前なら

、どこまでできてどこからできないか、という判断になります。

 

ある意味、行為というものはすべてが“カタ”ですね。カタからカタに行く。デ

ジタルです。そして、カタがあると、必ず“漏れ”がある。手のひらで水を掬う

のと同じ。掬うことと漏れることの、プロセス、過程、分量、比率みたいなもの

を、“常に観察”するということはできるわけです。

 

おそらく、私の場合は“老化”でしょう。55歳というのは昔ならば寿命が来ても

おかしくないし、死んでしまってもおかしくない年齢です。いろんなところがガ

タが来るようになった。ゆえに、あらゆる行為をカタとみなして、器とみなして

、その漏れを観察しよう、などと言い出している。

 

ただし、おそらく、この、器があって漏れがある、という、行為の構造性みたい

なものを、昔の人は、世界観みたいなところにセットしていたようなところがあ

りますね。今は、これはダメ、あんたはダメ、会社やめなさい、みたいな世の中

になっていますが。

 

つまるところ、“共同体”ですかね。よっぽどのことがなければ、“そこに居る

”ということは認められているわけです。それゆえに、ダメだ、バッテンだ、で

はなく、どこまでできてどこまでできない、という、優柔な判断が一般的だった

のではないか。

 

その意味で、新しい共同体感覚がそこにあるとすれば、それは、そのようなあり

方、つまり、“赦してあげる”ということですね。ダメだということではなく、

まず、ゆるしてあげて…ゆるむということに関係がある語ですかね…どこまでで

きてどこまでできないか、をよく見てあげると。

 

行為があれば、漏れがある。器があれば、漏れがある。それを前提とした、世界

観だということですね。プラスチックの洗面器ではないと。