次々と押し寄せる過去の記憶と、反省。

肉体の観察が心、(もしくは精神)、心を観察するのが霊、という順なのかな、と。

心の働きのある人は、その人がどういう気持ちか、よく分かる。こうすれば、その人がどう感じるか、思うか、ということは理解できるはずだね。

そして、そのような心の働きのある人は、霊の働きがそれを観察しているということで、霊の働きのもとで心の働きがあると考えられる。

心は、正面から向き合わないと分からない、といえる。横の方向から、あれはどうだ、こうだ、というのは、知識だからね。そういう意味での知識は、もう、どこでもある。飽和しているとさえ言えるかもしれない。

心を知るには、まずは肉体から入るということだろう。そして肉体と心のレベルをある程度まで卒業したら、心と霊ではないか。

“知覚正面”といったものが見えてきて、その真後ろに“知覚背面”といったものが、開いた扇子を閉じるように見えてくると…扇子の骨が一点に集まるところ…それは、次から次に溢れる、過去の記憶の倉庫だった。

そして自分の場合は、次から次に、自分の思いの至らなかった経験、反省、後悔、懺悔、といった内容の記憶が押し寄せてくる。

だんだん慣れて、「次はなんだ」といったくらいのものだが、思い出し、反省し、考え、「次はそうならないように」と決意することで、少しでもよい方向が現れてくることを祈るばかりだ。

今は、ひとまず、こうした心の世界を開かせてくれた、肉体の体験と、多くの人々の善意に感謝したい。

もうほんとうに、横から人の心をかすめとるようなまねはやめたいものだね。

“前”を向いて、他者とコミュニケートする、ということ。