国家と他者

より一般的に、「他者性」の時代になっている、

ということが言えるのではないかと思う。

その中で、多くの者が「もう政治的な言葉が使えなくなってきた」と思っているのもまた確かかと思う。

たとえばひとつ、古代の国家の様態が、半島圏と九州圏とで、海、そして海の民の勢力をはさんで、「どちらが主体側」ともつかぬ、国家~主権のあり方を呈していた時代があったとされている。

これは要するにこういうことである。

国家とは、当初、海の民が、交易のために利用していた経済のメディウムであった、という観点である。

だから、“海上都市国家”の時代では、A地点とB地点とで、主権、つまり主体を“交換”することも可能になる。

こうした二重的な国家のあり方、またその二重性、ないしは多重性としてある国家に貼り付けられたラベルとしての王の標識を、(甲骨文字では王はまさかりのマーク)、現代のような…“主体性(=アイデンテティー)”をその中心にうがつ礎として逆利用されているような国家の観念において…

それをそのまま捉えるというのは、そうとうに無理がある。

というか、より実際的に、それは“誤り”であろう。

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民族学者が「中心と周縁」という図式を出していて、これはヌースの円心に似ている。

この中心周縁構造が、国家とその中心にあるという構造のあり方は、先の海洋国家に特徴的であると思われ(主体性の交換)、

それは端的に、それが「経済~交換」と“馴染みがよい”ゆえであろう。

古代人とは、合理的な人々であったということだ。

今の時代にもまして、人間は、コミュニケーション~交通に、生存の死活問題をかけていたのだということだ。

(その時代、交易は戦争と裏腹であったが、それでも人はそれを求めたというようなこと…)

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たとえば「岩文字」というのがある。ペトログラフ

これは、古代の海の民が、ほとんど世界規模の経済活動をやっていたが、その際、調査をかねたメールマークとして、刻みつけていたものだと言われる。

そしてこれは、宗教的に利用されている。いわゆる古神道の文脈である。

今現在の国家というのは、古代の国家のような“能動性”を喪失し、“反復”のみに生きる存在ではないのだろうか。

言葉を換えれば、人間の反復としての意識の中にのみ、巣くう幻想としての歴史国家ではないのだろうか。

そして、その歴史という幻想に巣くう人間の政治性という観念が、その“主体性”という独特のあり方において、実際的に、ほとほと旧く、ほとほと実用性を失っているのだが、

そのズレそのものが、それこそ現代なりの“経済的主体性”において、“ハッキングされる対象”となってしまっていると思うのである。

(現代の経済は、流動する差異ではなく、差異の固定であり、その意味で経済流動の根源エネルギーとしての“差異”が、逆の意味合いをもたされていると考える。これは「貨幣」のあり方と同等である。)

そのような意味で、すでに国家は情報的存在としかあり得ない存在だともいえる。(経済的に、情報活用される反復としてのスタティックな性格をもった国家である。)

言葉を換えれば、国家は古代に見られるような能動的な“身体性”というものを、ほとんど完全に失ってしまっているということだ。

(国家における能動的身体性とは、上にあるような、主体性の位置の交換による、経済のメディウムとしての媒介としてのそれに代表されるような、流動的国家というあり方。つまり、主体性の位置を交換し、ズラした時に、そのズレそのものが、国家の流動性の原動力となるようなあり方。これはほとんど四次元的な描像の中にある。)

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王も、主権も、国家の領土性も、大昔は流動的である。固定されていないのである。

そこに主体をうがった時に、そこはある種の最小空間として、全方位に回転するのである。

そういうある種のパノラマ感覚の妙が、たしかに神話世界に残されているのだが、これが徐々に、固定されていくという歴史なのである。

もはや反復でしかない国家が、その歴史感覚という時間のズレに、流動性を固定とみなすバグが、絶好の情報国家としての“弱み”となって、

宗教ビジネスにいいように使われているのが“古神道”うんぬんなのではないのか、とも思う昨今である。

(※その愚かさは“反復”するのだと思う。いや、それが結果的には愚かなふるまいをしたというのは、じゅうぶんに学習された事柄だろうとも思われるのだが、反復するのだと思う。というか、反復するしか能がないというのかな。それがすでに“能動性を失って”いるのだから、反復しかできない、とも言えるのではないか?)

(たとえば“政治”が“身体”のリアリティーを取り戻すと今さら誰かが考えるだろうか? 国会はひたすら居眠りの場であり、たまにそれらしいおしくらまんじゅうの儀式をやる場所でしかないという印象だ。)

ドゥルーズ本を読むと、ポンティもドゥルーズも、フランスの5月革命という事件に深く関わっている。それはおそらく「身体」の部分だろう。ポンティは知覚論だし、ドゥルーズは医者のデリダの臨床感覚のリアリティーを持ち込んでいる。その「身体」の部分が、「闘争」という語に代表されるような政治の身体性というあり方に響かされていた。それがもう、ほとんど無くなっていたんだろう。燃え尽きようとする線香花火の最後のかがやき。その後は逆に、身体の言葉が、もっぱら政治の言葉に捕獲されて急速に鎮静化したというのが実態ではないだろうか。)

古めかしい政治や宗教の言葉そのものが、もう使えないのではないだろうか。

みなそう思っているのではないだろうか。

また、自ら望んで、かような“反復”の場に身を浸すこともまたあるまいとも思うのだ。