ミサ山 ~器の詩学より

> この「サ」を根源的で神聖なものとして伝承してきているのは諏訪地方である。奈良における聖なる山は三輪山であり、これは御諸山(音読みすると「ミシャ山」と読める)、美和山とも呼ばれている。他方、諏訪地方の聖なる山は諏訪大社の奥宮とされる御射山(みさやま)である。ともに「ミサ」が根源的な存在の名とされてきている。

「諏訪の御射(みしゃ)山」と「奈良の御諸(みもろ、みしゃ)山」は、連続性があるのではないか。

漢字研究の白川博士が、古代のシャーマニズムの心を学ぶために、古代歌謡の研究から分野を移して、甲骨文字の世界に入ったとのこと。

そこでひとつキーになるのが、「口(くち)」で、これは飲み食いする口ではなく、「器」としてより抽象化された「口」のニュアンスだとのこと。

(たとえば、「霊」の旧い字体に「口」が入っている。孁、など。)

ミサクチ、ミシャグチの場合も、クチは「口」に近いのだろう。

口は、振動する器官であり、洞窟、洞窟的な反響のニュアンスに近い。

意図して出す声や言葉もあるが、無意識の奥の方から湧き出て、結果的に口の中で響いてくるような、声、あるいは息の現象も多い。

また、その息により、起こされていく動作の世界というものがあるだろう。

霊的な世界、奥行きの世界との境界部としての、ミサクチ~ミシャグチのニュアンス。

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原住民である縄文人は、どんどん押されて、北の方、最終的には北海道のアイヌ、あるいは、山間部に逃げていったと。山の民。、

山間部の遺跡に、縄文犬の骨が出土するとのこと。

そんな中で、縄文の人たちは、彼らの宗教、もしくは世界観を、なんらかのかたちで残そうとする。

宗教、特定の神というよりも、もろもろの事柄、事象に、神の顕れ、息吹を感じ取るための意識の技術の伝承、だったのだろう。

それをどこかに隠した。それはどこか。

見つかりにくい場所でなければならない。

祭壇を設けて神を祀る、などということをやっていては、まるごと禁止されてしまう。

蛇の神様というのがあったとして、これは「蛇神憑き」などとして、地域によっては(おもに関西)、悪魔のような扱いになっている。

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それはひとつ、「道具」ではないか。

神様を祀る道具があるとして、ご本尊を残せば、道具含め、ぜんぶ消滅してしまう。

ゆえに、まずはご本尊を抹消する。

もしくは、それを、なにがなんだか分からないような、ナンセンスな姿にして残す。

そして、むしろ、媒体としての道具の中に、祈りのようなものをそそぎ込む。

江戸時代に花開いた芸能や職人の文化が、意外に、縄文ルーツだという話があるそうだが、それは、そのように、道具の中に魂を残そうとした彼らの成果であろう。

それは、道具の文化の中にずっと潜伏しつつ、持続的に作用し続けてきた。

道具としての信仰。

道具とは、それについて何かを間接的に語るというよりも、それそのものの直接性だ、という考え方。

例えば、棒一つとっても、蛇が脱皮すると、その全体がそのまま、ひとつの輝く眼になる、という考え方。

これは、“直線”的な意識が、道具活用の意識の錬磨を通して、点、もしくは球の中に入っていくあり方を示しているのだろう。

道具。物と体との接触面。

そこに、かなり深いものがありそうだ。

(※「サ」とは境、もしくは裂け目のことであり、ミサとはその尊称。)

(ミサヤマ。道具としての変換作用。テコの中点としての重心。その象徴であるというニュアンスだろうか。)

参考ページ:Facebook 「器の詩学として」https://goo.gl/tgi6to

 

画像:年宿(ネンスク)。

疲れずに山を行くマタギの祈りの道具だという。

この行為の瞬間に、年の全体性が宿るという考え方。

ひとつの界面における微分的な凝縮。

最も大きな存在が、最も小さなものの中に入り込んでいる、その重なり、境目の位置。

(スクは宿。持続的に宿るという作用。「ズク」に通じ、精神の持続性のない心のあり方を「ズクがない」と表現する。)

 

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