知覚の可逆性 認識の流動性 (潜在化としての氣の次元、顕在化としての構造化の次元)

勾玉は、陰陽の表現のように思え、それは、子宮の中の胎児が、その敏感な体表において外界を察知し、羊水と一体となって振動している。その振動を直接に感じ取る場所、つまり背中側が陽であり、その反響を受け取る側、腹側が陰であるとのこと。

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文化コードにまみれていない、つまり言語的な意味にまみれていない、純粋なエネルギー、生命エネルギーを取り出すためには、その時々に調達することが必要となるようだ。

それは、その方向は、垂直性であるといえ、それは、「死の身体」というような状態に作用するものなのだろう。

逆にいえば、死の身体に対するところの生の身体は、コード化される身体であり、その生命エネルギーのコード化は、「氣」というプロトコルによりシステマティックな状態になっているのだろう。

その意味で、氣は、「潜在化のレベルである」と言えるのだろう。

その意味で、顕在化、つまり、能動性、意識ではなく、まさに無意識の領域における能動性の獲得は、氣よりもむしろ血液なんじゃないかね。

それは、筋肉などと関係している。そして筋肉は、運動や行為、おこないと関係している。

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「氣(気、气)」と書いて、古代の訓では「まで」とあててある。

この「まで」は距離と関係している。「~まで」という言い回しだ。

なにかを対象化する認識、意識ベクトルのあり方は、「直線的」である。

しかしこの、直線的な対象認識のあり方は、つい最近の、近代的なものだろう。

それは私たちにあって、学校の初等教育などで、しつこく動機付けされたものだろう。

つまりそれはデフォルトとしての意識や行為のあり方ではない。

デフォルトとしてあるものは、母子関係だろう。

一般に胎児~7歳くらいで、松果体の機能が失われるという。

そういう意味で「まで」の距離感は、直線ではなく、線分としてあると思われる。

線分A-Bから、それぞれ直線方向に伸びたものが、対象化される認識世界であり、それは、しかるべく、コード化された氣の、文化的な動機付けをともなっているだろう。(社会コード化の秩序)

その秩序の枠内で人がなにかやる時、それは氣の構造体の枠内にあるということである。

(そのように、たとえば、近代化された中国人の知識人は、構造的に認識した。世界の文化歴史を、氣というタームで構造認識した。)

その意味で、氣という観点は、生命体としての人間の社会的な営みを構造的に記述する場合に便利な観点であった。

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一方、生の身体に対するところの死の身体においては、逆に、線分A-Bとしての「まで」としての距離感が、閉じた有限性のままで、線分の内部に向かい、一点に、つまり、二つの点が二重化して重なってしまう点に、収束するということなのだろう。

双つの点の重なりとして二重化されたポイントに、「垂直性」というものが、意識の方向性として関与し、ここで、意識構造の階層性が一段階、高まっているのだろう。

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ものごとを対象化する、直線的な認識においては、一般性、あるいは、コトバ・概念としての固定、などが生じ、それはそのような固定(ラベル固定)の“聖化”にもとづくだろう。

そのような聖なる概念、聖なる言葉は、聖書(=聖典)の言葉として、ドグマ、教条主義的な権威主義を作らせた動機の中で作られたと言われている。

その意味で、直線的認識とは、近代的な認識であり、それは、キリスト教世界において用意されたものなのだろう。

そのような固定・固着が、いわく言いがたい、彼らの「正義」なるものの、頭の固さ、行為の固さを印象付けさせる。

そういうのを、賢いとか偉いと思い込んでしまってはいけない。本来は。

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固定の逆は、流動性である。

直線的認識における対象化の意識が、概念を固着させる。

そしてそこから、やれ、このイエスの言葉は旧約のどこのページの何行目のなになにと対応、などと、事細かに、身体感覚の鈍い、頭でっかちの人たちが、やり始め、そのような人たち(神学者)の行為が権威を帯び始める、のみならず、それこそが権威であるというような、学問の価値であるというような、風潮ができあがってしまう。教会という組織の話である。

固着しない認識とはどういうあり方かといえば、それは、対象に対する観察点が、観察する意識が、すぐに再び、あらためて対象化される、対象として認識されるというような、対象化の再現化であり、その再現化のプロセスが間髪入れずに次々に続いていくという流動性の構造のことだろう。

そのためには、観察点が、一点に固着していてはならないだろう。

つまり、直線的な認識においては、それはほぼ、頭部に固着されている。とくに、目ではないか。

しかし、流動的な認識の構造にあっては、観察点はほとんどフレキシブルに全身をかけめぐる。

これは、「体表」ではないか。

その意味で、いわゆる「認識の可逆性」というのは、体表感覚ではないかと思うのだが。

(対象化はまぬがれない。人間の知覚においては。それが人間の意識の働きなのだから。だから要点は、対象化している観察点が、間髪入れずに再度対象化されることであり、それは、観察点が頭部にあるなどして一点におさまるかぎりにおいてはあり得ないことである。)

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なにかを感覚が対象化する。この感覚化の働きを、人間の意識が出ることはない。

問題は、感覚化した意識の元、つまり、観察点が、再度対象化されるという、対象化の反復性、認識の流動性のことであり、それは、対象に対して固着しないのだから、ひとまず言葉の働きからは漏れている。

つまり、無意識的な領域となっている。ふだんはまるで自覚していないのだ。つまり、「ウラの世界」なのだ。

気をつけねばならないのは、観察点が再対象化された際に、再対象化した次の観察点Xは、「存在の裏」に回った位置にあり、これを感覚化、あるいは認識化しようとすることは、無理だということである。

それをやろうとすると、おそらく「内心」の領域に入るのではないか。(認識の転倒における精神の倒錯現象。)

それはあくまで「流動性」という、意識や認識の「構造性」として捉えねばならず、それは要するに、ある種の構造感覚としての、いわゆる「メタ」なレベルということなのだろう。

そうしたことが、そういう構造としての流動性というものが、「対化」ということなのではないか。

そしてそれが、人間という性質となっている。

すなわち、人間は、よく分からないことは、よく分からないままにしておけばよく、無理に無駄な思考をやらかすことに積極性を持たされていない。

人間には、具体的に、たくさん為すべきことがある。

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※「垂直性」は、線分ABに対し、その中点から垂線を立ち上げた、正三角形の頂点へと向かうライン。

これは、構造的には、正4面体の高さ方向に等しいということなのだろう。

そして、双つの正4面体が交差しているのが「キアスム」であり、これは「対化」のイデアとなっている。

これは、母子間における、双つの相互認識の原型、デフォルトであろう。

そしてそれは「体表」において実現される。

そして、そのようなコミュニケーションの位相が、より能動的に実現されるのが、メタレベルでの「体表」であると言えるのだろう。(たんに皮膚=体表という話を超えて)

それは、三次元を超えて、4次元的に領域になっているということなのだろう。

-引用-
・体表(たいひょう) 人間の意識において最初に顕在化する4次元性のこと。最小精神ψ3が持つ負荷。正四面体の高さのイデアに対応する。正四面体とは一つのモノの認識のカタチ(モノとは正四面体に中接する正八面体)。」(ヌーソロジーより)
-引用-

 

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