「触覚=ψ1-2」のあたりから取りかかるのがベター?

ヌーソロジーそのもののTwitterFacebookの更新が毎日ある。そして、その近くにいる人たち(スタッフ寄りの人たち)の書き込みがある。もちろん、ふだんのおつきあいの関係にある友だちの方々の書き込みがある。他にとうぜん、本も読むだろう。検索やbotも読むだろう。

そんな中で、自分の書き込みを読む時間があるのだろうか?(笑) 素朴な疑問である。

まあそれでも、何人かに読まれているということは事実なので(笑)、個人的には、ヌーソロジーに関しては、自分なりの方向性をより絞り込んでいくことが、良いことではないかと考えている。

具体的には、ヌーソロジーにおける、“NOMI”から“OCOT”の間、ということではないかな。つまり、人間の意識が顕在化にさしかかる部分。ヌース用語的には、表相の中和⇒表相の対化の顕在化→方向性の対化の顕在化、のあたり。

そこに、「体表(ψ3における負荷)」「最小精神(ψ3)」「表面-面表(ψ3-4)」、「超心点(表相の対化が起こる場所」といった概念をからませる。

そういう意味では、内容的には入門者向きなのではないかとも思うのだが、(ψ1-2~ψ13-14のうち、ψ1-2~ψ3-4の部分を扱う)、

その場合に身体感覚、とくに触覚、そして触覚と関わる部分での視覚の関係を取り扱うので、

個人的にはなんらかのボディーワークや施術の体験、などがある人が、話しやすいかな、と考えている。

-引用-
人間の空間認識はまだψ1~2を出れていない。

ψ1~2は時空を規定しているが、この球空間の表面は触覚の位置でもあり、また、人間の意識に尺度概念を提供している位置でもある。空間を尺度で支配してしまうと、次元は全く見えなくなる。こうした状態は「形質の中和」と呼ばれている。精神が持ったカタチの力がまだ全く生まれていないということ。

ψ1~2は点球、ψ3~4は垂子(すいし)と呼ばれ、点球(一つの対象)に対する観察次元を作る。垂子は次元において最初に生み出される精神でもあり、その意味で「最小精神」と呼ばれることもある。

https://goo.gl/SRmy9N
-引用-

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光と闇。前と後ろ。後ろで世界を覆い尽くしてしまえば、光は闇の中の光へと堕してしまう。有機体(可視光)とはまさにこの闇の中の光のこと。この闇の中の光を認識の光へと変えること。これが「前」の顕在化ということになるだろう。後ろの中に前を見るのではなく、前と後ろを分離すること。

後ろはもつれた空虚。この空虚をまさぐることができるのは触覚だけだということが分かる。後ろで物を触ってみるといい。そして、そのかさばりの中に距離を想像してみること。僕らが宇宙と信じて疑わない延長空間とは実はそのかさばりがいたずらに概念として引き伸ばされたものにすぎない。

OCOTに言わせれば、触覚とは人間の外面の発露でもある。その内部で言語と概念によって生きているのが人間の内面の意識であり、それは精神においては、自らの種子の内部のような場所なのだ。種子の中において成長螺旋を描いていくあのドゴン族が描いたフォニオの図像(トング)を思い出すこと。

https://goo.gl/SQzLqA
-引用-