包丁(ほうてい)の話 表面と面表

Φさんのコメント、

-引用-
触れる=接する=差異が相関し合う関係=比率=微分、というニュアンスです。
-引用-

「触れる=接する=差異が相関し合う関係=比率」のニュアンスにおいては、接触面、つまり面、ないしは「表面」というものが関係している。

顕在化とは、“対化”の顕在化である。知覚における面(表面)は、本来、「表と裏」で2枚の境界面を構成している。それを人間は、1枚の面として認識してしまっている。1枚だからそれを「対象化」できる。同時に2枚の場合は、そこに挟まるしかない。

「触れる=接する」の本質は、ナイフのようなイメージだろう。魔術で使われるような両刃のナイフ。「それを切る」という対象化でなく、そこに入っている、嵌入しているという状態。教科書にあった「荘子(そうし)」の「包丁(ほうてい)」。

「今では目を使わずとも心で牛の身をとらえ、骨と肉との間に刃を入れて、骨に刃が当たり切れ味が鈍るようなこともない。むしろ切れば切るほどに、刃はよく切れるのです。」

これは包丁の刃のことであるよりも、それを扱う料理人の観察力のことを言っているのだろう。この場合に言えることは、ひとつは、行為における観察が“特異点”としてあること。つまり四次元空間としてあること。その特異性を、説話というかたちで、やはり特異的に残しているということ。

本当の認識、本当の世界像は、面と面との“間”にあるのだが、“幅世界の住人”である人間は、つねに、ものごとの世界を平盤的に、対象として捉える。“見る”という行為の最中でなく、“見られているもの”という事後性の中に置く。そこでは「自らの観察力」そのものが放り出されている。

もっぱら対象化された後の、事後的な世界においては、リアルな感覚というものがない。“瞬間性”という時間的な対象化の中で、感覚そのものがスポイルされて、そこには“感覚されたもの(=見られているもの)”しか存在しない。

空虚な世界であるから、人間はときおり、そうした世界をズタズタに切り裂きたくなる。解体したくなる。

そんな解体願望をなんらかのかたちで、それこそ衝動的に実行してしまったら、たいへんなことになってしまうだろうが、多くの人々が心のどこかで、そんな解体衝動を抑圧しているからこそ、建物の解体、動物の解体、などの仕事に従事する人々への差別感情というものが存在するのかもしれない。

余談:包丁(ほうてい)による牛の解体は、おそらくまだ牛の体温が残っている状態でしょう。中国人が料理店専属の畜舎が近くにある店を選ぶというのは、死んで間近の動物の肉体に残された“ケイラク的なエネルギー”を摂取するためだと思われる。

そのような意味でも“気エネルギー”というものは、潜在的、つまり人間的なのであり、変換人たる者、“カタチの力”を摂取する、食べる、という方向に行きたいものです。


『包丁(ほうてい)』荘子(そうし、そうじ)  https://goo.gl/UaE1hx 


●表面(ひょうめん)

人間の内面における一つの対象の界面のこと。いわゆる一つのモノと呼ばれているものの全表面。観察子表記としてはψ3。表面は顕在化としては最初の精神のカタチとなる(最小精神)。トポロジーとしてはSO(3)。

● 面表(めんひょう)

人間の内面に想像されている一つのモノのこと。人間の外面における一つのモノは逆に「表面」と呼ぶ。面表と表面の関係は観察子表記では顕在化におけ るψ4とψ3の関係に同じ。互いに反転関係にある。複素数平面における単位円内部の実軸と虚軸が意味するもの。虚軸が表面の対化で、実軸が面表の対化。

(ヌース用語辞典より)

※ψ5が「面」、ψ6が「面背」らしい。

(表面=ψ3も観察における“面”には違いないが、「面」という独自の用語があって、それはψ5の位置にあるということ。)

参考ページ:Twitter https://goo.gl/9TPUif

「ついにキヒツさん、本格的に活動開始ですか。応援しております。触れる=接する=差異が相関し合う関係=比率=微分、というニュアンスです。私のイメージでは、「触れ」は「振れ」で振動を意味して、物理学の調和振動子などともダイレクトに繋がっていくようなイメージですね。」