存在をめぐる同一律。「ある」「いる」「なる」

-引用-
K つまり、人間が持った他者認識は全く見当違いのもので、それ自身が「病気」と呼べるような状態なのだろう。結果、身体も病む。

M 「なる」こと、つまり次元の交替化において、(人間の幸福の立場からみた表現として)「歪んだ元止揚」や「歪んだ上次元の関与」をその舞台として持ってしまった場合に、それが病気などの形で人間に表れるケースがあるのではないでしょうか。この事は今後の課題として思考していきたいと思っています。

K ええ、そうですね。問題は人間の意識においては中和(レッド)が先手を取ること。そこが一番の問題なのだろうと思っています。

M 人間の意識の次元では「なりたくない」という意識として、働くのかもしれませんね。

K 言葉を変えると、「死にたくない」ということですね。
-引用-

村岡さんの動画では、できるだけ思想用語を使わないヌーソロジーのエクササイズの方法が紹介されていた。

思想用語を理解し、思想用語を前提とした学問的な摺り合わせは、もちろん有効である。

しかし、自分の日常にそういう環境がなければ、なんらかの工夫が必要になる。

「人間は、言語における“同一性”から離れたところで、他者と意志の疎通ができるのだろうか。コミュニケーションができるのだろうか。」

これを徹底すると「精神分裂病」になるのだろう。重度の分裂症にあっては、他者との関係が完全に失われ、「たれ流しの状態に到り、赤ん坊の段階にまで退行する」らしい。そこまで行って、自分と世界との同一性がもたらされる。そこまで退行すると、自我がないのだから、世界と分離していないから、とうぜんそうなる。

そしてそこからがめんどうである。心身ともに密着しながら、ていねいにケアしていくと、ひとつひとつ、失われた回復のプロセスをたどるようになるという。分裂症には、母子関係における障害が関与している。

「人間の他者認識は元からまったく見当違い」であるのだから、「病気になるのは仕方がない」ということ。

逆にいえば、「正しい他者認識にもとづいて、その実践をしっかりやれば、自ずから病気は回復していく」ということになる。

「見当違いの他者認識」とは、「ある」ことに関連している。

「わたしがわたしとしてあること」。その、存在にまつわる“同一律”、反復性が、間違っている。

尾崎豊の歌ではないが、「自分が自分としてあること」の要請は、あまりにも私たちにとり自明であるために、それを疑っていない。

「私は」というポジションを獲得するためには、なにはともあれ、「私が私としてある、あらねばならない」という同一律が前提となる。

私は私としてあろうとするし、またそのためにも、「私は」という自己声明を声高に押し出していかねばならない。

「“引きこもり”の連中は、他者におびえてそういうことをしていないし、その結果、自分が自分であることを確立できもしない。」

しかし、そのような「アイデンティティー」としての自我のあり方は「間違った自己認識~他者認識」であり、「正しい認識」は、「いる」ことだという。

私がいる。あなたがいる。ただ、それだけでよい、と。

…これは、「付帯質を前にもつ日本人」であれば、あたりまえの感覚であろう。

とくに自己主張せずとも、「私がいる、そしてあなたがいる」ということは、あたりまえの感覚として共有されている。

「居酒屋」にいく。ほろ酔いかげんになる。「私はいる、あなたもいる。」

「注文はなんですか?」「シシャモがいい」「私は春巻きです」。

「主語が無い」わけであり、酔っておればなお、「私(存在)は、シシャモ(対象)が、欲しい(能動)」とかでなく、「シシャモだ」ですむ。

「私はシシャモだ」。

「主客一致」、「即自」ということである。

強固な自我の世界にある欧米人は、このような日本の居酒屋の空間に同席すると、ひじょうに驚くらしい。「まるでマリファナパーティーのようですね」、と。

しかし、「いる」ではまだである。「なる」ことにより、それが確実化される。

なぜならば、「いる」はまだ、“受動的”であるが、「なる」ことは“能動性”をともなっている。

それは、「いる」ことを可能としている、その原因へと、戻ろうとすることである。

「いる」こと。つまり、ここに生きて、息をして、大地に足をつけて、生活をしているという自明性を、反映としてあらわしめている、その背景として世界というものがある。それはとうぜん、生の裏側としての「死」の領域となる。

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今、たまたま“プラグマティシズム”のパースを調べているが、パースの「連続性」という考え方がある。

-引用-
「連続主義」(synechism)は、パースがギリシア語のσυνεχ??(シュネケース:「連続的」)から案出した造語である。(中略)平たく言えば、連続主義はあらゆる物事に連続性を見出していこう、という考え方である。

パースが挙げる例に睡眠と覚醒というのがある。我々は普通、起きている状態と寝ている状態は全く異なる状態だと考えがちであるが、実際は、我々が寝ているときも、我々が思っているほど寝ているわけではなく、また我々が起きているときも、我々が思っているほど起きているわけではない、と彼は言う。「我」と「汝」の違いについても同様である。連続主義者は、「私は完全に私であり、あなたではない」と言ってはいけない。また生と死も連続的であり、あくまで程度の差だと彼は述べている。

これらの例からも分かるように、連続主義はあらゆるものの本質的同一性を説く考え方であるが、これは、先に述べた真の連続体の特徴とも関わっている…
-引用-

「死」を「生」に対して不連続と考えているから、「死なない」という発想を人間はもつことができない。

しかし、「連続的である」とみなしてしまえば、生の中に死があり、死の中に生があることになる。

それは、生が生であることの意味、あるいは死が死であることの意味といった「同一律」をめぐる思考ではなく、その逆の思考となることが分かる。

死は生に対して開かれており、またその逆もある。ならば、それそのもの(=同一律)というよりは、それら二つの間の比率や、交換関係、あるいは相互の運動性=回転、などを考える必要が出てくる。

これはヌーソロジーの「対化の等化(=回転)」という概念に似ている。

※パースの連続主義:https://goo.gl/4fpWpR

 

M 人間の意識の次元では「なりたくない」という意識として、働くのかもしれませんね。

K 言葉を変えると、「死にたくない」ということですね。

参考ページ:Twitter https://goo.gl/Cgyp98

福岡ヌーソロジー研究会の動画 https://goo.gl/i696iT

 

 

 

-引用-
幅は瞬間、奥行きは永遠。
幅は延長、奥行きは持続。
幅はマクロ、奥行きはミクロ。
幅は経験的、奥行きは超越論的。
幅は外在、奥行きは内在。
幅は他者、奥行きは自己。
幅は不連続、奥行きは連続。
幅は頭脳、奥行きは心
-引用-

この「幅は他者、奥行きは自己」という言い方が、今いち分からん…

自分のニュアンスでは、自己に閉じていることが不連続で、他者に開いていることが連続なんだがな。

逆に、「他者に閉じていて自己に開いている」という状態を言うのか。

「内在性」のニュアンスとして。

「人間の元から誤っている他者認識」においては、“同一律”としての「私は私」を前提としており、それは「ある」ことを前提としていることだから、自分をめぐりひたすら自己言及的であるだけで、そこで他者に対して「開こう」としても、絶対に「他者性の開示」というものに到らない、と。

「奥行きは自己」の意味は、「私が私であること」の解体と、「私がいること」をベースとして、「なる」ことを可能とする、そのような私のあり方や方向性を言うのか。

…ん? ところでなにに“なる”んだっけ?(笑)

参考ページ:Twitter https://goo.gl/KYVj4s