物の持続=忘却

-引用-

なるほど、舞踏家にとって死後の生とは、たましいの脱─受肉としての第二の生ではなく、骨という無辜の物質の生涯をいとなむ、まぎれもないこの世の 生の延長なのだった。物の生涯はひとの死をまたいで、死後の生まで切れ目なく持続する。その生の持続は、肉の生から骨の生へと移行するが、そのあいだにあ る死は、物の生にとっては存在のできごとにはならない。物の生には死は存在しない。ただ消滅があるだけだ。物は消えることはあっても死ぬことはない。率然 と出現し、あるとき、突然に失踪する。その出現と消失のあいだには、跡切れない持続(忘却)がある。

こう言ったあとに急いで付け加えなければならないが、物の持続(忘却)における出現と消失は、存在の仕方についての二つの相貌なのだ。この双面にひろがる 物の持続とは〈忘却〉と一体になった絶対的な外部の記憶のことであり、それとしては触知不可能な潜在的な時間である。ドゥルーズの言葉を借りていえば「短 い記憶の彼方にある絶対的記憶」ということになる。

このように物は、絶対的記憶のなかに〈不死なるもの〉として存在している。とすれば、物の生に関して、かつてマルクスが『エピクロス哲学・第四ノート」に しるしたように、〈不死なるものとは死である〉ということができよう。突然の出現と消失のあいだに渺漠とひろがる〈忘却〉をかかえる物の生は、不死なるも のを本質としているがゆえに、それをこそ〈死〉とよぶのである。〈死〉をたんに腐敗─分解のプロセスとして受け容れるわけにはいかないとしたら、〈不死な るもの〉こそ、〈死〉といわなければならないだろう。テクストの「私」の記憶は、こうして前人未到の物の持続(忘却)という絶対的な外の記憶に、すなわち 〈死〉に届いたことになる。

そこでいまいちど土方巽の発明品である「少年骸骨」について考察してみよう。

死後の生の領土を見聞してまわったのは、まぎれもなくこの骸骨だとして、それはたとえば肉体でいえば、どんな差異が見いだされるというのだろうか。それを確定しなければ、骸骨はたんに肉体の特殊なの隠喩の影にあまんじなければなるまい。

ところで、先に「少年骸骨」について、それはさまざまな想念を拭きとるための便宜的手段あると、まえもって断わっておいたことを思い起こそう。とすれば、 骸骨はいかなる意味においても肉体ではない。肉体とはベルグソンの思考にそって、物質と記憶の総体を折りたたんだ生ける知覚体であるとみなせば、骸骨は逆 に生ける知覚の神経回路を麻痺させる。つまり、物の情動的知の運動を、この骸骨は麻痺させるのだ。テクストの「私」は物との混有による存在の生成過程を中 断し、停止させて、死後の生の生の領土を“見聞”したことになる。それは“経験”とはいいがたい。

-引用-

『肉体のアパリシオン/河村悟』p.138より

 

メモ その1:

通常の三次元空間的な意識においては、意識が対象化している表象物の印象に突き動かされるかたちで認識活動が展開されている。

このような三次元空間的な意識のあり方は、「短い記憶」の中にストックされている。

これに対し、「短い記憶の彼方にある絶対的記憶」というものが存在する。

この“彼方”というニュアンス含め、これはおそらく、「四次元空間」であろう。

そのような「絶対的記憶」のひとつの特徴が、「物の出現と消失の間にある、跡切れない持続」であり、これが「忘却」である、という点。

物を点のようにして対象化する三次元空間においても、やはり、物は印象や記憶として、現れたり消失しているわけだが、それは、意識の中の印象や記憶の中で、物が消滅し、死んでいる、ということだ。

四次元空間では、対象としての物がどうの、という意識のあり方ではなくて、物そのもの、物自体の「持続」、という在り方が取り扱われる。

「それがどうの」という対象化ではなく、「それそのもの」ということ。

そしてその物自体としての持続の特徴が、出現と消滅のオン・オフということであるよりも、その経過としての「間」であり、そこに「跡切れない持続」というものがあって、これがすなわち「忘却」という記憶の在り方だということ。

人間の肉体は死ぬ。しかし、物の持続は、人間の死をまたぎ越して持続している。これを「肉の生→骨の生」と言い換えることができるということ。