ヌーソロジーと蛇神のただならぬ関係
連休に入ったとたん、Facebook連投とはさみしい(笑)
本日は、部屋の片付けの予定。
意識や身体の開発に関して、一部の敏感な人たちや、女性一般など、ヨガ、マタニティー、などなど、相当なレベルに達していると予測される。
そういう中で、さて、自分がなにかできるニッチな領域はなんだろうとふと思った時、それは「男たち」かもしれない。
では、具体的にどんなアプローチが?
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ヌーソロジーはとても面白い。
量子理論、素粒子理論という、言葉からして、極小のつぶが、その点的な、対象的な、存在のあり方において、ある種のパラドキシカルな(粒子であり波動でもある)限界性を超えて、なんらかの、別な理解のあり方において、人間の理性、感性に訴えかけようとしている。
理解の内容というよりも、理解の“場所”の変更を求めているという感じだ。
そういう不思議なニュアンスを、うまいこと拾い上げている思想としての、ヌーソロジー。
イチローが、ワンバウンドした投球を反射的に打ち返してヒットしている動画があるが、あれに似ているかな(笑)
打てる打てないというよりも、そんなもの(ワンバウンドした投球)打つもんじゃないだろうという常識に対するひっくり返しのインパクト。
とんでもないボールを、ジャストミートして場外ホームラン。
そんな夢が広がる。
まあとりあえず、自分は観客どまりなんですけどね(笑)
こちとら、「素粒子とはそういうもの」と先に擦り込まれてしまったもんで、
素粒子論そのものの内容はともかく、そういうもんだと思っちゃっていて、逆にそういうのもどうなのか(笑)
いわゆる“鵜呑み”ではいかんよね。
分かっているつもりでぜんぜん分かっていないという。
ゲージ対称性理論なんかも、勉強せねばならないのだろうけどね。
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ヌーソロジーと原始信仰としての蛇信仰とのなみなみならぬ関連性について。
古代の蛇信仰は、世界共通だそうなので、これはある種の普遍性をもつ分野だということになる。
知識には、古い新しいということはあるにせよ、古くとも、理にかなっている、ということはあって、古い分、ある種の分かりやすさ・・・いや分かりやすくはねぇか(笑)・・・直接性、いわゆる“情動に直接働きかけてくる直接性”というものをもっている可能性がある。
いわゆる“精神世界”には女性が多いので、蛇の信仰というと、結論的には「あまりおいしくない」ということになるかと思うが、男だとどうか。
男の子って、蛇とかトカゲとか大好きじゃん? 自分も大好きだったしね。
ヌーソロジーの方で「奥行き=持続」というキーワードが出されている。この「持続」に関しては、「◯◯というように思うといいよ」などと、手を変え品を換え、説明されるが、何度聞いても、分かったような分からないようなしろもので、凡人の自分が凡人のみなさんに説明するとして、まず「無理」かなと思うんだよね(笑)
そういうむずかしさ、ややこしさがヌーソロジーのひとつひとつの説明の面白さではあるんだけどね。
べつにヌーソロジーにやさしさを求めてはいないから(笑)
しかしこれは、蛇信仰だと、わりと直観的に説明できる部分もあるんだよね。
「あれですよ、あれ」という感じで。
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原始信仰としての蛇は、ひとつ、「時間の神」である。
これは、「永遠の時間」であり、「全体的な時間」である。
これはヌーソロジーの説明する「持続」のニュアンスに近い。
「通常の流れる時間を“把持している”のが持続の時間だ」などという説明のあり方。
時間には、単位として、大きく、1年と1日がある。
1日を蛇の1枚のウロコに喩えて、それがまるごと1年として脱皮するのが、「新年」だというのが、古代信仰の特徴である。
1日というパーツを、つなげる、持続させるのが、1年という全体性だ、という考え方である。
逆にいえば、1年という全体性の持続の働きの中に、1日があるという考え方。
ここに、「神の一日は人間の一年である」という考え方が乗っかっている。
ここらへんは、古代のチャネリング情報なんだと思う。
とくに知的に高度とは言えないが、シンプルな分かりやすさがある。
感性に訴える強さをもっているということである。
(1年という時間の単位が円環状で表される。とぐろを巻いた蛇のかたちで表される、などのイメージでの分かりやすさ。1年の更新が、脱皮する蛇で表されるというイメージ。そこには、1日、そしてその日の行いといったパーツが連動して、持続の運動性に結びつけられている。そのような“重なり”のあり方。)
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蛇は、地面に這う動物でありつつ、そんな蛇が、首をぬぅーと垂直にもたげる瞬間が印象的である。
とくに、交尾の際、二匹でからみあいながら地上から身をもたげる姿は、写真で見てもインバクトがある。
キーワードは「垂直性」「垂直に身をもたげる、起こす」であり、その意味では、垂直に立つ石棒と同じ意味をもつ。
ともに、ニュアンスは、男性器の起立現象であると言われるが、それは「持続」がむずかしいものであり、それが「永久に持続する」がゆえに、「神としての属性を有する」というニュアンスがある。
(性の持続の祈願うんぬんではなく、神と人間との絶対的な違い、差異の表現であると考えた方がよいだろう。)
この場合も、古代の祭祀の中心は女性にあって、「神の性能力の持続性」を、地上の男性に問いかけるといったシーンを連想させる。
それに対する男の側の具体的な返答。
これはいささかユーモラスである。
圧倒的な、神と人間との能力の違いを前提にするから、笑いになるのだといえる。
どんぐりの背比べであるから、悩み、深刻になるのだともいえる。
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「持続としての時間」って、要するにアレですよ、アレ。
正月の行事の旧いニュアンスは、旧い神である蛇の神様のお祭りであり、それは歳神(としがみ)の祝い事として、蛇のとぐろをまいた姿をかたどった鏡餅の造形ともなる。
モチというのが、ぬぅーと伸びている。なかなか切れない。
蛇の脱皮がストッキングに喩えられるが、ストッキングもぬぅーと伸びるが、あのニュアンスに近いのではないか。
モチは、コメ粒からできている。
みんなの前で、これでもかこれでもかと、米をつく。
コメ粒からモチができるという結果そのものよりも、そのプロセスをアピールするパフォーマンスであろう。
それは、コメ粒であるということと、モチであるということの、両方のニュアンスであろう。
ヌース流に言うならば、「対化」ということ。
正月という、旧い歳神と新しい歳神の交替の期間に、「コメ粒=1日の世界」に生きる地上の人間と、「モチ=持続=1年」を生きる彼岸の神とが、交わるということ。
この1年と1日という対化の関係を、等化する視座が神であり、中和する視座が人間であるということ。
その二つの重なりは、二段構えの重なりとして表現されている鏡餅の造形により表されている。
どちらかが神で、どちらかが人間である。
あるいは、二つに重なったモチの上にあるミカンが、とぐろを巻いた蛇の目であるとされている。
神と人間との「対化」があり(二つのモチ)、それを「等化」する「観察力」があり(ミカン)、立派な鏡餅に、なんともいえぬ「重心」の存在を感じ取ることができる。
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こういう話を面白く話すには才能が要る。
日本の社会は、こむずかしい、屁理屈、こまごまと、対象化し、分断化し、あれこれいじり回す知性のあり方を嫌う。
自分がそういうのが苦手ならば、人にやってもらえばいい(笑)
こういう話をじょうずにできる男の人はいる(笑)
その時、ヌーソロジーの話を出すまでもないかもしれないけどね(笑)
コメと餅、それは素粒子理論における粒子性と波動性のことで、蛇の脱皮とは、1年と1日の関係、すなわち地球の公転と自転の対化を等化する視座のことです。
・・・自然科学に詳しくない人間がやっても仕方がないって話になるね(笑)
「まあそういうもんだ」と頭の片隅に置いておくといいよ。
野菜は八百屋、魚は魚屋で・・・てか、今はぜんぶスーパーか(笑)
今年も鏡餅はビニールのやつだったしなぁ。