新たなる方向性の覚醒 (その1)

氣、と来れば、陰陽である。

陰陽とは何か。

たとえば、男が陽で女が陰。陰陽で、女が先である。

マクロビとかで、練習法があるのでしょうか…

ひとつ、人体のうち、背中が陽で、腹側が陰。

…しかし、こういうのは、指示的というのか、対象的というのか、初めに説明ありきというのか。

説明を聞いて、頭に入れて、というよりも、圧倒的に、「こういう感覚だ」「こういう原理になっている」という実感があったのではないか。それこそ大昔には。

陰陽がある種の共通原理になっているというのは、そのような圧倒的な実感があったからこそ、その原理を支えることができたわけだ。

その意味では、陰陽の基本原理は、マニアックなものではなく、ポップなものであるといえる。

でも今どき、陰陽とか言っている人たちの世界は、マニアックであると言えるだろう。

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いわく、「黄金の蛇が鎌首をもたげ、新しい太陽へと向かう」。

「新たなる方向性の発現」。「方向性の覚醒」。方向覚醒。

これをもって、新たなる精神の覚醒であり、新たなる光であるという。

このような、新たな光の向かい方、「方向性」が現れた時、その進む進路の方が「陽」、その裏側が「陰」ということが生ずるであろう。

方向性の発現にともない、ある種の実感性の中で、光と影といった、陰陽の筋道が発現してこざるを得ない。

頭の上の太陽が、体の影を作るのと同じだ。

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天才蛇神研究家の吉野裕子さんによれば、蛇神とは、沖縄の神木である蒲葵(びろう)の樹木に見立てられているという。

あるいは、そのビロウの葉から作った蒲葵扇に見立てられているという。シンボライズされているという。

これを、「男根象徴」であると、第一にみなす。

一介の主婦であった吉野さんが、突如として、神話~シンボル的な意味での「蛇=男根」一元主義を提唱したことで、当時、出版界では、エキセントリックな扱いをされた。

それはそれとして、私の今の考えはこうである。

蒲葵樹を「男根である」というのは、今ひとつ、指示的ではなかろうか?

いや、吉野の研究が、確かに「蛇-男根」一元主義であるとして、そこに一元化があれば、そのシンボルは当然、ただ男根であるはずもない。

多くの名前があるうちの、ワンオブゼムとしての「男根」であるはずもない。

それは多様な、もしくはありとあらゆる象徴的意味を含み得るものであるでしょう。

そして実際に、蛇のシンボル世界はそのようになっていると吉野さんは言う。

しかし、ここで個人的な意見として、それは「男根」というよりは、「起きる」というニュアンスがむしろ強い、と思うようになった。

つまり、「蛇」としての象徴は、男根、マラというよりは、「起きる」という状態を現したいがために、蛇、あるいは男根を、ひとつのシンボル、媒体として使っているのだ、と。

で、それはなにかというと、それは、「新たなる意識進化の方向性」であろうと。

そのような方向性における「新たなる精神の発現」であろうと。

そういう神話的な予兆が、男根象徴として、シンプルなカタチでもって述べられていると考えるようになってきている。