“氣”を考える (その1)
ヌーソロジーの方で気功や気の話が出ている。
以下、津村喬、『気功への道』p.7より。
(申しわけないが、文体を自分の好みに変えてある。)
-引用-
気とは「潜在力」と定義される。現象の背後にあって現象を成り立たせているもの、それを不断に変化させているところの潜在する力。
もともと「気」の文字は“Z”に似て折れ曲がった三本の線であり、「たわめられたバネ、蓄えられたエネルギー」を指す、という説明もある。すなわち「乙」と同系の文字である。
-引用-
漢字の「乙」を引くと、「まがる、へらの形」とある。
ここでいきなり思い出したが、
スサノオが川をのぼってクシナダヒメを助けに行く時に、拾う箸が、「アイヌのパスィーだ」ということを言われたことがあった。
調べると、アイヌの儀式で使う呪術用のへらのことだ。
箸の話をしているのにいきなり「箸ではない。パスィーだ」と断定されてきた(笑)
『エミシの女神』が出てすぐのころだ。
「まがる」「まげる」は、魔術、呪術での象徴的な行為であるとされる。
(曲げる者=ウイッチ・クラフト)。
これはおそらく、時間を曲げる、ということなのだろう。
時間をたわめて、事象に潜むなんらかの力を引き出す、ということ。
蛇や蛇神研究の吉野裕子さんの意見は、
もしそれが箸だったら二本ばらばらに流れて来る。それが古代箸だったから、一緒に拾うことができた、というもの。
この場合も、たわめられており、そこに潜在する力、というものを想像することはできる。
(※ヌースでは、「空間における“鋏叉(きょうさ)”」という言葉が出てくる。はさまれた空間、のニュアンス。空間は、なんらかの対象としてあるのではなく、境目において、そのものとしてあるもの、という考え方。)。
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中国での、氣の研究は、科学的なアプローチを取った。
しかし、氣は、対象的に分析できない、というディレンマが生じた。
氣は、対象ではなく、そのものの関係の中に入ってしまわなければ見えてこない。
※『字通CD-ROM版/白川静』より