点の中にいる人間は、なにに上次元性を見るのだろうか。

オコツト的な、上次元の視座からは、人間の意識世界が“ひとつの点”として見えているらしい。…ヌーソロジーの話であるが。

そのような視座からすると、人間の意識活動の全てが、“点”の中にあるので、ごちゃごちゃしていてよく見えない。そういう、“点”の中に人間の意識はとどまっている。ゆえに、その点から抜け出てくる意識・・・点世界からの逸脱・・・に対しては、よく気づくということになるのだろう。

オコツトが、オコツトという上次元における意識の中で、点としての表相を見ているのだとして、人間の表相も、それと同じ形式として“表相=点”に近いのだろう。しかしそれは、点は点でも、人間の場合は、“中心点”と呼ばれる何かとなっているということ。

●中心点(ちゅうしんてん) 表相の等化を作り出しているところ。自己の表相と他者の表相*を等化したときの位置。人間が他者が見ている表相を想像して、自分が見ている表相とかけ合わせ、表相を三次元的なものに変換しているところ。

ひとつの対象を、その対象点において、視覚的な回転運動を介して同一化し、一般性のもとで重ね合わせること。すなわち、そこに言語的なラベル、つまり名前をふって、辞書的に編纂し、文化的なコード化をし、その社会的な階層化の作用のもとで統制的にふるまう操作性を言っている。

これは、オコツトが、人間の意識世界をひとつの点として覗き込んでいる様子とは、形式としては類似であろうが、その意識が置かれている位相、つまり“次元”がまったく異なるといえるのだろう。

視覚というのは、摸造と関係がある。上次元におけるひとつの対象点への覗き込みという、上次元の視覚のあり方を、人間の視覚~中心点~表相の等化のあり方は、摸倣する。上次元における疑似的な像を摸造、つまり剽窃する。

“中心点”は、人間の意識を、硬く、3次元認識、つまり物質的対象化の認識におしとどめている。

かような表相~見る働きの固定・固着の作用、点認識というあり方を、ブレークスルーに持ち込むのは、“表相の中和”の作用である。これは“人間の最終構成”というのが始まると、引き起こってくるとされる。

●表相の中和 人間の最終構成から顕在化に入るところに生じる。人間に表相の働きを失わさせること。すなわち、表相の顕在化を起こさせ表象化をやめさせてしまうこと。表相の対化を作り出すための上次元の調整作用。

●超心点(ちょうしんてん) 潜在化における重心の位置。人間の次元における反覚醒と覚醒の境界。表相の中和が起こるところ。定質を性質に変換させるところ。覚醒させる力を送りだすところ。モノの界面。モノと皮膚が接触する部分。覚醒においては「重心」となる。

人間の、覚醒の力への方向性は、表相~視覚的な一点対象化の認識ではなく、皮膚~体表感覚的な“球面”性から現れてくる。

上次元における表相の等化、つまり、神的な視線と、下次元における表相の中和、すなわち人間の皮膚~体表的な界面世界とが、“対化”を形成している。つまり、“点-球”の関係が、対、対化としてあるということ。

この関係が顕れてくることを、“表相の対化の顕在化”と言うのだろう。

“人間が歩く場合や走る場合は、体から重力を感じる感覚を消してしまってるところから体は始まってて”

“人間が歩く場合や走る場合は、体から重力を感じる感覚を消してしまってるところから体は始まってて”

重力を感じるというのは、下方ということである。足裏の感覚とか、内臓の重さ、筋肉の重さ、そういう内的な要素である。また、筋肉や内臓は、相互の擦れももっているので、そういう摩擦、ノイズ的なものもある。

そういう内的な要素を、見ないようにして、外側から、ひとつのモノのようにして、体をコントロールする、というのが近代的な西洋体育であり、これがそのまま、外部からコントロールしやすい体ということとつながっているということ。

体育教官の目からすると、そういうコントロールの連鎖からはみだしてしまう動きというのは、ひじょうに目立ってくるわけだろう。これはどうしても気になる。つまり、内的な動作。まあ、アクビみたいな動作のことだ。

“前後軸によって正面側に仮装の点を目でイメージして走るから、地球を面として蹴って走ってて、根っこがない状態(双子は感じれない)となってる。”

目の前に、仮想的な“点”をイメージして走る、動くことが、“3次元的”ということと関係している。

今は、体育的な身体が、クルマの運転ということに直結していて、体を動かすことがクルマの運転感覚と重なっている部分も大きい。摩耗したり故障したりすれば、交換すればいい、と。メンテナンスは専門家にまかせればいい、と。

“地球を面として蹴る”と、“根っこ”が失われ、“双子”が感じられなくなる。

ここは、独特の表現。

“瞬間性により、持続性が失われる”というような言葉のイメージもわく。

根というのは、角度ということと関係している。地面を面として蹴る時、その角度を、外側から見ているということだろう。そのことが、目の前の仮想的な点の設定とリンクしている。

双子の感覚は、むしろ、その根の、角度の中に入る、あるいは、角度というあり方を、事後的ではなく、ある種の“微分”的な係数として、つねに運動の中に組み入れるというような、“気づき”を必要とすることと、関係するのではないか。

角度とは、起き上がりであり、起き上がりの根というものが重要であるという認識がある。

“垂直性”というのは、まあ、そういうことであるが、垂直性は、そのような起き上がりの根の観察により、担保されるなにかであるということが言えているのではないか。

今でもたまに見る体育の時間の悪夢について

自分は、中学の時に、体育教官に集中的にいじめられていて、それはひとつ、内申書の小学校の時の非行履歴なども関係があるだろうが…家庭の状況が悪かったので…体育教官である大人と、格闘していたという経験がある。

一度、クラスの女の子が、どうして自分をいじめるのか、体育教官のTに問い詰めたことがあるのだが…保健体育の時間に…何が、彼をしていち学童にしかすぎない自分をイジメさせたくなるのか、今考えても不思議である。

Tは、“お前、○○に気があるんじゃないのか”などと言い返し、Sちゃんは、その場で泣き崩れてしまっていたよね。それになにもできなかった自分が悔しいというかね。

自分はADHDの傾向をもっているので、似た仲間である暴走族をやっているような不良にはイジメられるタイプではない。とにかく、あの、体育教官にイジメられていたのだよね。すると、それに同調する勘違いなやつも出てくるじゃない。

体育というのは、外側から、体を操作する、コントロールすることを仕込む時間なわけだ。自分の場合、母親が学生のころから踊りをやっていて、踊りの体というのは、体育と逆で、内側からなんだよね。母親からの影響が大きいと思うわけで、母子間の身体性というのは感染するわけだよね。

自分が勉強の成績は良い、ということもあっただろうが、なにかこう、体育という方法論に、決定的になじまないなんらかの要素を自分がもっていて、それがひどく鼻についたのではないか。まあ、動き方みたいなものだね。

そして実際に、自分は、体操的なものはバランス感覚があってうまく、クラスのみんなも、ある競技においては、一目おくような存在でもあって、Tもその時は認めざるを得なかったよね。ただし、野球みたいな、対象物を追いかけるようなやつはまったく苦手である。

 

※時代は校内暴力全盛の時代。校内の不良の管理を、ヤクザまがいの教師であるTが一手に請け負っていた様子が見られた。たぶん、Tも、かなりギリギリの精神状態の中で、日々を過ごしていたのだろうと、今は、思い返すことができる。

“点”というものを知覚と不可分とする世界観の構成 しおりちゃんのトゲ

“体が3次元とは感じていない場合 

地球は3次元ではなく 円周が回転しても 球にはならないので

地球は5角形で沈み落ちて 5角形で引っ張り、押し上げる

無限のトゲトゲの集合体の様に感じ

ウニや栗に尻もちをついたら痛い記憶は世界側でなく

細胞の方が持っているから刺さると痛いと感じる。”

https://twitter.com/oauein/status/1160107788908892163


納豆的なねばねば、つまり外部的な観察ではなく、菌的な、生成としてのあり方が、4次元であり、4次元としての地球である、と。

体が3次元ととらえるような、認識のあり方が、地球を3次元的な物質対象たらしめている、と。

それは、2次元としての回転運動が、3次元としての球にならないのと似ている。


五角形というのは、五芒星や黄金比と関係し、生命原理と関係していると考えられている。

しおりちゃんの使う“トゲ”のニュアンスは、古代の“サキ”の語のニュアンスに近く、サキは先であり、裂きであり、咲きであり、というように、点としての“空間”である。

空間として裂けて、開けてくるような、“点=トゲ”なわけで、3次元的に距離をもたされて認識される“点”ではないということ。


3次元的な点と、四次元的な点の違い。四次元的な点は、トゲや針として、“刺さると痛い”という“知覚”の次元を、つねに同時に抱き合わせているということ。

これは、シュタイナーのエーテル体の定義、生命感覚と、思考とが、裏腹で、抱き合わせの関係となっている、というのと似ている。

シュタイナーの時代は、近代の、科学主義の台頭の時代で、生命感覚を削ぎ落とすことで、一般的で抽象的な空間、世界観のあり方が、人間の日常に広がっていった時代である。そこに人智学は警鐘を鳴らしていった。

シュタイナーの文章は、そのような科学主義の台頭を意識しており、科学主義者に対して、スキを見せないように、念入りに組み上げられていることから、ふつうの庶民にとってはとっつきにくい側面もあるとのこと。


一般性の科学は、その生命感覚の側を切り捨てて、客観物の次元で、世界モデルを仕立て上げていく。変化する知覚という、観察における変数の部分を削り落とせば、モデル化はより単純に、容易となる。

(体調が不安定な女性を切り捨てて労働の生産を組み上げれば、計算能率が上がり、経済的なリスクが軽減される、といった指向とパラレルである。一般モデルの仕立てやすさと、その仕立てにまつわるリスクやノイズの問題なわけである。)

病院に行けば、向こうは機械の計測データを相手にしていて、こちらのことはおざなりとなっている。昔の内科医と根本的ななにかが違う。そういうことと同じである。


“円周が回転しても 球にはならない”。

客観データの世界は、距離をもたされた、視線の、眺め回しであり、円周の回転に似ている。ぐるぐる、その一定距離を回ることで、その一般的な定義を確定する。

(ヌーソ○ジーでいうところの、“表相の等化”である。)

●表相の等化(ひょうそうのとうか) 自己側の表相と他者側の表相が等化されるということ。

他者の表相をユークリッド的線として見えさせ、その線を自己側にもコピーさせるということ。結果的に人間の位置を三次元の中に投げ込む契機を作り出すことになる。

人間の意識に客観性を作り出させる原因となるもの。モノが見る者と見られるものに完全に分離し、見る者としての空間が見られるものとしての空間を失ってしまうこと。人間の意識が進化の方向を見失ってしまうこと。

人間が存在しなくても世界が存在するという考え方を人間自身が持ってしまうこと。精神の内面が顕在化を起こすところ。近代的思考の誕生。

(表相の等化が引き起こる原因そのものは、上次元にある。そのようなイデアックな次元における等化の回転運動を、そのまま人間の知覚にベタに引き下ろすと、近代的な客観主義科学としての、反動が、人間の意識や社会に引き起こるということ。)

(上次元の回転運動=等化を、人間の知覚に引き下ろす場合には、“皮膚感覚”が窓口になる。皮膚感覚は、球面を構成している。つまり、上次元の円~回転運動が、下次元の球面に、トポロジー的に対応しているということ。それを、視覚の回転にそのまま引き下ろすのは、カテゴリーエラー。)


トゲが刺さって痛い、というのは、知覚そのものと不可分で、距離がない。これが、“球面”を構成しているのだ…“無限のトゲトゲの集合?”

この部分は、ヌーソ○ジーで言う、超心点と地球の関係に似ている。

超心点は、触れることと関係している。つまり、球体的な感覚と関係している。

このような球体との接触点が、“反転方向”をもたされることで、5次元的な“一点”に収縮した点が、顕在化としての“重心”であり、潜在化=超心点、顕在化=重心の、トポロジー変換が為されている、とのことである。

 

シュタイナーとエーテル体 毎日2時間睡眠を可能とするもの

シュタイナーの“エーテル体”や“アストラル体”という言葉は有名である。これはもともと、“神智学”から来ている。肉体があり、エーテル体があり、アストラル体があり、みたいな、ああいう図を見たことがあるだろう。

エーテル体に関して面白いと思ったのは、生命的な側面と、思考的な側面をもっているという点。エーテル体における生命感覚は、“リズム”ということと関係している。シュタイナーの人智学には“オイリュトミー”という舞踏があるが、これは“良いリズム”の意味だそうだ。

思考はリズムをもっている、ということ。これは、よく思考をする人は、そういう感覚をもっているだろう。“文体”ということとも関係するだろう。散歩と、思索というものが、似ているということ。リズムを介して、肉体の方に振れたり、思考の方に振れたりするわけである。

シュタイナーは、一年間、ほとんどの日を、講義に当てていたらしい。呼ばれた場所に行っていたらしい。つまり、一年中、旅をし、歩いていた、ということになる。他にいろんな仕事もあるだろうから、そうした激務をこなすために、1日2時間くらいしか眠ってなかったと聞く。

シュタイナーの著作は、たんなる読書ではなく、“瞑想”的な読書ができるように書かれているという。これはこういうことだろう。シュタイナーの思考そのものがエーテル体的である、リズム的であるということであり、それが、日本語に翻訳され時にうまく反映されないのではないかと考えられる。

シュタイナーが一年中、旅をし、歩いていたこと。エーテル体というものを重要視し、その生命感覚がリズムに関係し、そのことが“思考”にも関係しているということ。そして、瞑想するように読むような文章を書いていたこと。本人が書く時に、なかば瞑想していた、ということだろう。

瞑想するように文章を読む、ということが、シュタイナーによる作為的な工夫であるというよりも、シュタイナーのエーテル体のコンセプトを考え合わせても、鏡のようにして、書くリズムと、読むリズムとが、瞑想のように、トランスする、息のように相互交換する、ということなのだろう。

毎日2時間睡眠だということが考えられないと思ったのだが、シュタイナーのテーマのひとつに“霊界参入”ということがあるわけだ。死んでから入る霊界に、生きているうちに入るという、そういう体験のことである。そして、死ということと、睡眠ということは、類似の現象だとされている。

瞑想的であるということは、半分、睡眠的である、ということであろう。シュタイナーは、歩く時、講義する時、文章を書く時、オイリュトミーをやる時、半分、眠っていたのではないかと考えてもいいかもしれない。そう考えると、睡眠が2時間で済む、ということが、あり得る。

私もオイリュトミーをやっている時、眠くなって仕方がないと思ったのだが、これは講師の人も、教えながら“眠くて仕方がない”という話であり、そういう眠さとか、だるさみたいなものを、リズムによって喚起する、つないでいく、そういうのが意識的な意味での生命感覚なのかもしれないなと。

 

 

 

双子と多面体 エーテル体など

双子同士の幾何学 https://twitter.com/oauein/status/1160057981901217792

双子の世界が“多面体幾何学”で表すことができるということ。多面体における、それぞれ1組の対称性、“面を点に変換”“点を面に変換”に関係があるのだろう。

対象的な思考から脱すること。なにかについて話すことをやめる、という時に、身体の方に行く、というあり方がひとつ。他に、多面体幾何学の思考の方に行く、というあり方。

多面体の双子は、互いに面と点を変換したところの、正六面体と、正八面体との関係などを言うものだろう。正四面体は、同型の多面体が双子のカップルを作っているということ。

 

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シュタイナーの幾何学では、この、一つの球面に触れ合うかたちで、正四面体の中に正四面体が内包されて行く関係を“エーテル体”というものの構造モデルとしているらしい。エーテル体は、生命的なものと関係している。

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視覚により距離を遠くもたせてする認識のあり方は、こうした触れ合いの感覚から遠ざかるので、エーテル体的な、生命感覚が失われると考えてよい。また、あえてそれをやって抽象的な空間を作ることで、物理学は、宇宙を一般モデル化し、その中で論理化を進めたと考えられる。

農研究家の藤井氏は、体験上、その距離を三メートルくらいと考え、速度としては自転車、あるいは自転車でも少し速すぎる、とのことである。それ以上速いと、エーテル体がついていけない。エーテル体は客観的な存在ではなく、“知覚する”ということと関係している。身体感覚的なものである。

基本は“歩行”ではないかと思うわけだ。人間=二本足で歩行する動物、ではないか。歩く足の間で、エーテル空間的なものがつむがれていると。そしてそれが延長されて、たとえば、機織りとか、カゴ編みとか、昔の、職人的な動作に拡張されていた、と。生命的な空間が持続されているということになる。

シュタイナーは、この肉体に重なって存在するエーテル体のある場所がエーテル空間であり、これが“4次元空間”であると説明している。この存在を忘れて、3次元的な、もっぱら対象物として距離をもたされた認識の中に認識の基盤をもたされているという現代人のあり方。

現代の常識が、科学的な、物理的な空間認識に置かれているからには、とうぜんそうなるだろう。しかし、誰もが物理学を理解しその世界観を生きているわけではないので、むしろ、自動車と関係が深いのではないか。自動車を運転する経験の中で、、エーテル的な空間から振り切れた認識の世界に入る、と。

そこで近代性を獲得してきている、というルートではないか。物理的な空間の広がりは、学問的であるよりも、モータリゼーションと関係が深いという予測が成り立つ。(昔、クルマに乗る女性は希少であったが、今は誰でも乗る。そこで、大きな変化があったような気がする。)

いったん、生命感覚的なものと切り離された場所で、感覚を拡張する覚えると、今度は、そっちの方で社会性がもたされてくる。モータリゼーションの次に、コンピュータリゼーションが連動していると考えるべきで、どちらも、四角い枠の中から世界を対象化して覗き込んでいる。仮想的な世界のあり方。

問題は、それに“飽きる”かどうかだろう。飽きない人はそれをやり続けるだろうが、どこかで飽きると思うわけだ。ふつう、女性の方から飽きるものである。そして、女性が他の分野に移動を始めると、それを男たちも追いかけるかっこうで、文化というものが変動していくというのがよくあるパターンである。

その意味で、たぶん女性たちは“なんだこの程度のものか”と、飽きてきていると思うのだが、今は、プリクラ的なものに行っているのですかね。フレームいじりというか。フレームは界面的な領域で、生命感覚がある。そこに顔とか化粧とか、そういう近しいものをつなげて楽しもうとしている。

その、フレームいじりという部分が、より、根本的な方向に行くと、“3次元空間”そのものを、いじる、4次元の方にいじる、という方向に、行くかもしれない。そんな予兆を、ゲームがプリクラになり、彼女に同伴した男子がああいうものに参加するという風潮に感じたりするわけだ。

“体表”の概念

最後に、ヌーソロジーの用語の“体表”を掲載する。

この用語も“界面”ということと関係する。潜在化と顕在化の界面。ヌーソロジーの用語の“対化”というのは、“界面”ということと関係している。

よく出てくる“等化”という用語は…等化=対化の等化…この、顕在化した対化をめぐって引き起こる現象、あるいはまた、対化そのものをあらしめている背景としての力の原因である。

等化の働きは、上次元にあるので、人間は感覚化することはできない。理論的、思考的に把握するしかない。図式や数式ということになる。

これに対して、対化は界面であり、これは感覚と近接している。

●体表(たいひょう)人間の意識において最初に顕在化する4次元性のこと。正四面体の高さのイデアに対応する。正四面体とは一つのモノの認識のカタチ。ヌーソロジーにおいては、三次元性は立体ではなく面と見なされる。真の立体は四次元性にあるということ。

 

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●位置(いち) 精神構造において対化の作用が働く場所性のこと。精神構造を形作るために生まれている様々な次元境界。この境界性を空間構造としてフレーム化してい るものが《イデア-理念》である。

ここで、いちばん初めの“位置”の用語に戻った。

“対化”は、人間の歴史の中では言葉をもたされず、もっぱら無意識的な領域、身体、芸能、性、といった領域において扱われてきた。

それを“点の対化”としての具体的なカタチとして見ようとするのが、顕在化の意識であるということだろう。

●円心(えんしん) 対化の幾何学的なカタチを言う。

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