さだまさしの大衆性

最近、ふと、ぜんぜん聴いてなかったさだまさしをネットで調べている。

さだまさしが芸大の高等科に合格してたら、おそらく一流のヴァイオリン奏者になっていたことだろう。3歳から楽器を始めたが、5歳の時に父親の事業が倒産している。つまり、レッスン不足で、不合格になっているわけだ。

えてしてそういうもので、子供のころ、豊かな環境で本来の自分の霊的才能をある程度開花させ、道づけし、その後、環境の悪化、つまり、病気やケガ、あるいは経済的理由なんかで、より下層の文化に身を浸していかざるを得ない。そういう表現者がたくさんいる。

どういうことかというと、芸術などというものは、原則的には、死んでからあの世に行って、いくらでも極めればよいということらしい。霊界の芸術村に入り、芸術家として死ぬほどアートすればいい。まわりもアーティストばかりだし、道具はいくらでも揃う。素晴らしい環境である。

地上世界というのは、そうではない。結論的には、アートを極めるという場所ではないんだね。逆に、アートならアートで、自分のもっている素養のレベルから、一段階も二段階も降下したところで表現することでようやく生活費をかせぐ。そんな場所である、と。

そのことによって本来アートなんぞ関心のないような部類の人間にも、なんらかの影響が及ぶことになる。種が植え付けられることになる。

その意味で、大衆的といわれるレベルでの一流の表現者の中に、本来の能力のレベルをぐ~んと落としたかたちで、表現を余儀なくされている者が多く、(プロデューサーがいて、いわゆる自己満的表現だとしてばんばん訂正されてしまう。マンガなどはその典型)、そういう目線で彼らの仕事を見なければならないな、と。

人智学なんかだと、端的に、ルチィフェル的衝動という言い方で、脱地上的、霊界指向の表現を言い、その過剰性をいさめているようだね。人智学は地上性、人間として生きることを重視するからね。

その意味で、人智学が分かりやすいかというと、どうなのか。ただ、分かりやすいことが、本質的な意味で分かりやすいことかというと、これはまた違うということなんだろう。やはりレベルというものはある。