在ることの特権性を越えて

祭祀の始まりは女性にあるということ。

その中心は、妊娠にあり、妊婦の体内に双つの生命が二重化するということ。

ゆえに、本質的には、その状況が、男たちには理解不能のレベルであったので、それはある種の奥義として伝承された身体知の体系であったということ。

やがてその中心性は、男たちにより、社会的なレベル、つまり、言語的なレベルに置きかえられていく。

つまりそれは、その象徴的な体系を、言語的なレベルで解釈し、置きかえていくという作業になる。

それは一般的な神話解釈のレベルであるが、しかしおそらく、その奥に、本来のソレが潜まっているのだろうと予測された。

(歴史マニアや神話マニアのたぐいに男が多いが、それは、神話解釈が言語的なレベルであり、しかしその本質が基本的によく分からず、ひっきょう、個々に恣意的な持論がまかり通る・・・そこに自己満足がある・・・という点がその理由なのだろう。)

・・・・・・

かような言語的なレベル、すなわち、神話や説話、そしてそれにもとづいた公共性のレベルに、なんらかの大きな変化が起きるとするならば、女性がふたたび、その中心性を語り出す時であろうと。

そしてしかし、それは言語によっては語れなかったわけだから、それに変わるところの、なんらかのシンボル体系を、かつてのように、肉体的感覚と密接につな がるかたちではなく、それとひとつ離れた、なんらかの論理的な体系性の枠組みの中で語り出した時に、これは変わるのではないか。

(かような身体の二重化の知恵が余剰的に、男の側に、溢れ出て来るのが性行為のレベルであるとして、しかしこれもまた、かつてのように女性が性を先導するのではなく、男どもが考えた男のためのポルノが少年の性を先導するようになっている時点で“出口なし”の感あり。)

(肉体に密接につながるかたちで、つまり女性特有のさまざまな生理現象と共に伝承されていた、巫女~妊婦~産婆の知恵の体系。西洋では魔女文化のことであ ろうが、しかしそれは、そうだからこそ、そのようでしかある他なかったからこそ、結果的に男どもがその知からスポイルされたのだと考えることもできる。)

・・・・・・

テナツチ、アシナツチが、手無し足無しで、「蛇」を暗示するという。

蛇が人間の反対物であるから、古代それが神とみなされたのだという吉野裕子の仮説が正しいかどうかわからないが、形態や運動性において、高度に複雑~複合 化した人間の器官の総体としての身体と、見るからにシンプルで、またそのシンプルさの中に明確な運動と構造の強さをもった蛇とが、対称的であるのかもしれ ない。

そういう反対物が、お腹の中に居る。そこに宿る。そのような胎児の存在は、「あの世」とのちょうつがい的な存在物であるように認識される。

あの世に親和性のある存在、あの世に半身を浸した存在が胎児=蛇であるから、これと双つ融合するには、母親自ら「蛇」に成る他はない。

これが、古代の女性たちが執り行っていた祭祀の、つまり“成る”ことの魔術の中心事項であるという。

蛇は、脱皮する身体と、脱皮した身体の二重性を生きているという存在でもある。

かようなる二重性を生きるということこそに人間の生の本質があるとみなされたのが、古代のシャーマニズムの起源のひとつとしてあるのだろう。

・・・・・・

羊水中の胎児においては、羊水の振動とともに振動するやわらかな膜のごとき体表が知覚器官の中心である。それは、羊水と接する背中側となる。

そして、その反響を反映として受け取る側が、腹側、あるいは、関節が折り込まれる、屈曲の内側となる。

陰陽としては、背中が陽。したがって成長した身体においては、陽性のまなこが、胎児的身体にあっての背中と対応するのかもしれない。

まなこに映る世界を、膜のように感知する。それが純陽性の、知覚である、と。

これに、その印象に反映された言語や意味が“二次的に”賦与されるのは、陰性の知覚の体系となっている。

それは、まなこに映る世界の振動に対し、より遠ざかる中で構成される。

手や足は道具を媒介とする。言語はその道具性の延長物であり、それはやがてコンピューターやプログラミングの世界を生み出し、もうひとつの世界を仮想的に構築するに到った。

近さ。それが双つあることの近さ。知覚の本質としてのエーテル体知覚の特徴。

ダブルとしてあること。

ダブルは語れない。ダブルの中に入るしかないんだ。しかしそれは、身体感覚の特権性にもとづき、端的に、男は1/3000、女にはかなわないという相場だそうで、そのコンプレックスと挫折感が、男どもが歴史宗教というものを構築した原動力なのだろう。

幾多の宗教オタク、歴史オタクの残骸が。(これに付随する“戦争オタク”も含めることができるのだろう。)

見ること。そして、見ている自分がここに在るということ。

ひとつの点の中の双つの、この極めて近しい関係は、そこにすでに在る、与えられている、なんらかの構造に由来している。その点こそが古代呪術の“中心”であったのだろう。

それを語る具体的な方法論があるのか?

-引用-
地上におる神さまはね、大体これ、ヘビです。これに「しめすへん」を付けるとね、祭祀の【祀】になる。
https://goo.gl/UQYHSX
-引用-

 

f:id:hahaki889:20170312143123j:plain

 

f:id:hahaki889:20170312143132p:plain

f:id:hahaki889:20170312143207p:plain