ノス、伸し、熨斗

「物理学は物質の究極にたどり着いた結果、そこに精神、つまり観測者自身の持続(虚的なもの)を見るに至った——まぁ、これがヌース的思考の出発点を意味するのだけど、にもかかわらず、その方向への思考の侵入を頑なに拒んでいるのが時間と空間という延長(伸す=ノス)の力だと思うといい。」

こうした「頑なな拒み」が、ある意味、偉い、という逆読みは必要なのだろう。

時空ががんばっているので、人間がこの場所で生きていけるという解釈のあり方。

昔は、勝手に侵入されていたのだが、ようやく、人間の力が増すことで、具体的に、人間の世界が切り開かれたのだろうな、というような考え方。

(シュタイナーの宇宙観などが参考になるような気配があるが、まだほとんど読んでいない。)

「精神の本性は持続にあるが、人間においてはこの持続が空間(延長)に従属しているために線的にイメージされてしまう。それがわたしたちが時間と呼んでいるものだと考えるといい。奥行き=精神が横に向いてしまい、ベルクソンの言い方を借りるなら無限に弛緩しているということ。」

伸すはノスであるとともに、熨す、熨斗(のし)なのだろう。

「・熨斗鮑(のしあわび) 元来、熨斗鮑とはアワビの肉を薄く削ぎ、干して琥珀色の生乾きになったところで、竹筒で押して伸ばし、更に水洗いと乾燥、押し伸ばしを交互に何度も繰り返すことによって調製したものを指した。「のし」は延寿に通じ、アワビは長寿をもたらす食べ物とされたため、古来より縁起物とされ、神饌として用いられてきた。 」

アワビの熨しは、これと関係あるかもしれない。

「空間における巻き込みと繰り広げはドゥルーズによれば潜在化と現動化に等しい。潜在的なものは内包として巻き込まれ、現動的なものは外延として繰り広げられる。しかし、巻き込みは潜在的なものと現動的なものの差異を自らの中に巻き込むのであるから、その中に両者のカップリングを作り出す。」

アワビ=女性器=コーラ=容器としての世界、と連想する。

コーラとは、物質である。あるいは、モノ自体である。

そういう言い方をする。

「物質とは聖杯です」。

これに対し、それについてより具体的に展開される人間の様々な意識世界の広がりは、それが伸されたもの、「外延として繰り広げられたもの」としてある。

それはもともと「内包的なもの」なのだ。あわびなんだ、女性器なんだ、コーラなんだ、という重ね合わせのイメージが必要となる。

神話、あるいは性的なアナロジーとしての表現である。

内包、あるいは収縮のイメージを忘れて、ひたすら外延、弛緩の方向にのみ繰り広げられたら、これはキリがない。

完全に弛緩した、際限なく間延びした時間が支配する世界がずらずら広がるばかりだ。

内包に対する外延化とは、奥行きの幅化であり、ものごとの対象化認識であり、それに名前を振ることであり、そうした名前の世界の無限増殖のことである。

そのように、今の人間の表象世界では、外延と内包との結び目のまわりが、無限増殖した名前でもってびっしりと覆いつくされている。

データベース化社会。検索化社会。

外延→内包への収縮のイメージが、ほとんど見失われ、結び目が見えない。

それはまた、詩の言葉が消えてしまった世界でもある、ということ。

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伊勢の熨斗鮑制の図。歌川国貞画。江戸時代。熨斗 - Wikipedia

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参考ページ:ブログ http://www.noos.ne.jp/cavesyndrome/?p=7470