地球の時点と公転 日切りとトシ

-引用-
●ノウス交信記録900821
 
ノウス:地球の自転と公転の関係は?
 
マスミモ:わたしたちの次元では公転と自転は表裏一体です。意識が交点を持つものにおいては方向性が同じ。地球の自転とは中和を行うために生み出された力。公転はカタチを定質に反映させるために生み出された力。
 
ノ:意識が交点を持つものとはなんですか。
 
マ:中心が性質を作り出している意識。ヒトの意識です。人間の意識は次元を交差する力を作り出すことしかできません。(※)
 
ノ:火とは何ですか。
 
マ:中和の関与が付帯質に変換されたときに生み出される力のことです。
 
ノ:熱とは何ですか。
 
マ:融解質そのものです。
 
ノ:火と熱の関係は?
 
マ:付帯質として生み出されたものが融解質で、火そのものは性質です。力の形態化した投影。力とは性質の反映において生み出されたものすべて。
 
ノ:火とは幾何的には何に相当するのですか?
 
マ:5茫星だと思います。
 
ノ:では、水とは何ですか?
 
マ:幾何としてですか?
 
ノ:いいえ、水自体の宇宙的役割です。
 
マ:水とはオリオンの内面における中和を作り出すものです。オリオンの内面において総体化した力である感性における方向をシュウカクカします(収穫化?集核化?)。感性の内面化したものの意識に上がってきた思形。人間の中性質。オリオンの内面とは中和の性質そのものを含みます。妙性質と中性質。
 
ノ:幾何としては?
 
マ:水は二つの次元を持っています。一つの内面においては8角形。二つの内面においては6角形。
 
ノ:水と人間の関係は。
 
マ:水によって生み出されたものすべてが人間の精神です。
-引用-
 
まさしく、ザ・ヌーソロジーという感じだ。
 
「なんじゃこれ!!」ってやつだ。
 
私のヌーソロジーへの取り組み方は、迷路ゲームか、ビブリオマンシーかってなものだが、一部、古代日本の蛇神信仰の部分に関して、ある程度、摺り合わせをやり、体系立てて考えている。
 
「地球の自転」が中和に関係するということ。
 
地球の自転が人間の時間に関係しているというのは、蛇神信仰に同じだ。
 
1日を人間の時間とし、1年を祖霊(親神)である蛇神の時間とみなす。
 
つまり、ウロコと、脱皮の関係である。(時間を更新する力は1年の方にある。)
 
ウロコは「日(か)切り」であるといい、和語での「限り」、つまり局所化の意味となる。
 
日切りの日(か)が、皮(かわ)、あるいは単純に、蛇を示す「カ(カカ)」に懸かっているらしい。
 
「切る」という動作に対する古代人の感覚は“両義的”であり、切ることは同時につなぐことでもあるということ。
 
だいこんに包丁を入れた時、包丁はだいこんを切っているとともに、ぴったりとつないでいる。これが「両義性」である。
 
客観的に見れば、くっついているか、分かれているかの二択となる。
 
しかし、実際の行為としては、身体感覚において、両義的であることが多い。
 
感覚が、認識の全体性をつないでいるということである。
 
(逆に、客観認識としての一般的な判別は、認識をばらばらに分かつ傾向をもつ。偏差値、なんてものがいい例だ。)
 
日切りとしての1日を、1年につなげるのが「オコナイ」である。
 
オコナイのオコは、「起きる」に由来し、蛇神研究の吉野裕子は、これを「垂直的な時間」と言っている。
 
マスミモの言う「公転と自転は表裏一体。意識が交点を持つものにおいては方向性が同じ」と関係があるのではないか。
 
今このオコナイにおいて、日切りとしての時間を、1年としての時間(=トシ)に接続すること。これが古代の蛇神信仰のひとつの根幹部分である。
 
(トシは、年(歳)であるとともに(蛇神=歳神)、米=トシである。米作が始まると、歳神が、稲(トシ)と習い合わされたということである。)
 
オコナイ=垂直的な時間に生きることが、人間の時間である1日と、神の時間である1年とを接続する交点であるとみなされる。
 
「正月」の鏡餅が、関西の一部のふるいしきたりでは「オコナイ」と呼ばれ、これが鏡餅と同様に蛇神の姿であるというのは、
 
コメ粒が、最小微粒子にまで砕かれて、何度も突かれて、踏まれて、モチとなる。モチ、いわば「持続体」となる、ということと同じであり、
 
その時、オコナイの中で、「正月」という脱皮の形式が、かたしろが、日切りの中で再現されている。
 
いちばん大きなものが、いちばん小さなものの中に窓口をもたされている。
 
そういうことだから、オコナイの中に生きることができれば、もはやクリスマスは要らない、ならぬ、正月は要らないというのが、縄文由来の古代蛇神信仰、というか、哲学となっているということである。
 
オコナイの世界とは、非主語性、「私」というものがない世界であり、(オコナイそのもの。述語性の世界)、オコナイからオコナイへとつながる、継続~持続される世界だということになる。
 
-引用-
・おこる〔起・興〕自動詞「起く」の派生形。「行ふ」と同根。起きた姿勢で行為することをいう。
 
・おこたる〔怠・倦〕 「おこ」は「行ふ」「起る」と同根。継続的になされている行為が、ある段階から低下してくることをいう。「起る」「興る」に対して、逆の方向にあること。
 
・おこなふ〔行・挙〕 身を起こして行動する。元気にことを為すことを言う。「おこ」は「起(おこ)る」「興(おこ)る」と同根。また「息(いき)」の母音交替形であるから、活動的にたちはたらく意である。「おこなひ」はその名詞形。(字訓/白川静
-引用-
 
※マスミモの「人間の意識は次元を交差する力を作り出すことしかできません」は、「次元交差する力を作り出すことはできません」の誤りかな?