ヌーソロジーとのあらまし

世の中がおかしいのではないか、世の中というものはひっくり返っているのではないか、ということを、高2のころから本格的に考えるようになった。

これは、当時、ロッキングオンという雑誌のIさんという方の文章を読み出したことの影響もあった。

ヌーソロジーが言及する「人間=精神倒錯者」というやつだ。

I氏が言うには、人間というのはコミュニケーションの失敗者であると。

コミュニケーションの失敗者としての人間が、倒錯の歴史として人類史を積み上げてきた。

よって、そのすべては「欺瞞(ぎまん)」なのだ、と。

まあ、ある種の極論である。

大学の卒論が詩人のランボー

レコードの訳詞は初期のデビッドボウイ。

エッジが効きすぎているきらいがあったかもしれない。

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本当のコミュニケーションを始めなければならない。

事実、コミュニケーションの辞書的な意味が、近年変化してきている。

以前は「意思の伝達」だったのが、「相互理解」に変わってきた。

アメリカがキリスト教の正義をふりかざす時に使われるのは「意思の伝達」としてのコミュニケーションである。

そして、相手をこてんぱんにやっつけたような場合には、「相互性」に照らせば、コミュニケーションの失敗となる。

(敵がいかに悪かをうんぬんする以前に、失敗は失敗である。キリスト教vsイスラム。そして日本、アジア。いまだ微妙である。)

いずれにしても、インターネットが登場してこの方、コミュニケーションの意味そのものが変わった。

次に問われるのは、その「具体性」だ。

どのようにして、「人間にあってのコミュニケーションの必然性」なるものを体現できるのか。

I氏の場合は、パソコンとインターネットの世界の可能性に求めていた。

しかし事実上、それもほとんど破綻してきている気配がある。

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新しいコミュニケーションを生きるためには、コミュニケーションの“構造”そのものを、世界の構造そのものの中に組み入れる必要がある。

そのニュアンスがヌーソロジーにある。

というか、それがヌーソロジーという思想の根幹部分である。

17年ほど前になるのか、東京から地元に帰ってきて、たまたま図書館で『シリウス革命』を手に取ったとき、ほんとうにビックリした。

「あ! コレだ!!」。

その時の本棚の位置、シリ革があった棚の場所、本と本との間に、あの厚い本が少し斜めに立てかけてあった…

記憶力の弱い私がそこまで覚えているほどのインパクトがあった。

I氏にもヌーソロジーを紹介してみたが、反応はなかった。

「地上世界は倒錯している。人間は狂っている」というような現状に対する格闘があまりにも長すぎることで、

ある種の怒りの固定により、肯定的なものに出合っても容易に受け入れることができなくなる、体が硬くなっている、ということかもしれない。

(あるいは、ひとまずアカデミズム寄りの方が取り上げるには、周辺的に過ぎるのか。最近のヌースはほとんどオカルト色を脱してますけどね。)

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などなど、いろんな経緯が自分にもあるのだが、まあ、この方向だろうと。

世界観、宇宙観のど真ん中に、コミュニケーションというものを、あらかじめ組み込んだ状態から、ものごとを考える、という習慣。

後付け、後追いではない、コミュニケーションのあり方。

説明的ではない、コミュニケーションそのものとしてのあり方。生き方。

それを指向するしかないだろう。