つねに重心に反映される精神進化のプロセス
-引用-
「人間の外面」の発見が4次元空間への入り口でした。
-引用-
昨日、オートバイ、山、神社、ミシャクジ、といった、いつものコースをまわってきたが、
どうも、いつもの満足感が味わえない。
おまけに、帰路、オートバイがエンジントラブルにみまわれ、本日、Nさんに搬送していただいた。
上のとうしんさんの言う「人間の外面の発見」は、ヌーソロジー的には、
「重心」ということにも関係している。反映している。
しばらく以前より、植物のエーテル体よりも、人間のエーテル体(アストラル体?)への感応が強まっている。
山に入っても今ひとつ面白くない。手応えにとぼしい。
ところが、人間の身体を相手にすると抜群の手応えが再現される。
もしかしてそのうち、週末を、オートバイやハイキングではなく、
人間相手に過ごすようになるかもしれない。
参考ページ:Facebook https://goo.gl/QWC9vV
-引用-
●重心(じゅうしん)
ヌーソロジーにおける「神」の定義。ケイブにおける黄金分割点そのもの。二つの黄金比(内分比、外分比)を見い出すもの。対化の内面と外面を分割するところ。対化の外面から内面に入るところとは、人間が顕在化を起こす最初の部分と考えられるので、このとき人間の意識に顕在化を起こさせる起点となっているものが重心の位置となる。
-引用-
私の解釈:
かつて人間の世界で「神」と呼ばれていたものの正体が、ヌーソロジーに言うところの「重心」であるという仮説。
キリスト教の神と、重心とでは、イメージが違い過ぎるかもしれない。
しかし、天の父とは、人間のこしらえた教義上の神であり、その底を踏み抜けば、神秘主義的な実践となり、そこで、「重心」というものが、なにがしか反映されているだろう。
(たとえば、『肚─人間の重心/カールフリート・デュルクハイム』とエックハルトの神秘主義的実践の関連性など。)
その意味では、組織宗教としての教義化の要素が、日本人においては弱い。
キリスト教が広まりにくいのは、日本人の信仰にまつわるセンスが、それらと違いが大きいということだ。
「信仰がない」のではなく、別のものが、日本人の精神に潜在化しているということではないか。
それが「重心」であり、それはたとえば、古き神として、お正月に飾る「鏡餅」の姿に、はっきりと表れていると考える。
鏡餅は、重心におけるふたつの界面の、分割点を観察する構造を指し示している。
そんなことを言っている人はいないだろうが、見ると、確かにそうである。
それは「重心の観察作用」を見事に図式化している。
「重心の観察位置」が、人類の精神進化の発露の糸口となる。
日本人の精神における重心感覚の発現そのものが、覚醒そのものが、その突破口となるということではないかな。
(日本人の潜在意識における「山の神」の存在。山の神の使いに「案山子(かかし)」がいる。案山子は片足立ちしている。つまり「重心」である。肉体レベルとしては、重心に反映される内容を言っている。また、肉体そのものが重心としての反映ということでもある。その意味で、ボティワーク全般が、この「重心」をめぐらざるを得ない。逆にいえば、これから多くの人たちが、従来的身体の、スタティックなバランスのあり方に安住できなくなる。これが、あらゆる不安な心の前駆症状となって、結果、世界が動いていく。その中にあって「重心」はけして「ひとつの答え」ではないものの、プロセスとして常に経過されるひとつの「位置」となる。界面感覚。)