祝福されない恋愛について

人間の最終構成と、ロックムーブメントが関係しているのかな、というのは考えた人も多いと思う。

その中で、パンクロックというのが起きてくるが、あれがなんだったのか。

単なる“反社会性”や“脱社会性”ではなかろう、と。


ひとつは、“直接性”というキーワードである。

メディアが発達してきて、直接性というものが疎外されてきたので、それを回復させるということか。

弾いているギターを壊す、というのは、道具の破壊としての“直接性”の衝動である。

また、セックスというキーワードも、関係性における直接性と関係がある。

“暴力”もそうだし、また“視覚的インパクト”もそうである。


ヌースの概念の、“変換作用”と“性欲”とに関係を調べたことで、いろいろと分かったことがある。

パンクのアイコンはシドヴィシャスであり、まあ、椎名林檎の歌に出てくるシドという名前であるとか、あるいは、シド&ナンシー的な、何か。

…国内だと“真夜中のカーニバル”という絶望的な青春映画があった…

あれはつまるところ、“共同体に祝福されない恋愛”というものではないだろうか。

恋愛、そして結婚は、共同体に祝福されるべきものだろう。

また、モテる男というのは、要するに、社会性の高い、共同体的な匂いのする男子である。

今、バンドマンがもてるとしたら、彼らが、疑似共同体としてのマスメディアの匂いをただよわせているからだろう。

そこに“共同体に祝福される恋愛~性”というあり方が潜在しているということ。


ところが、“顕在化”にあっては、おそらく、“性欲”、つまり性に向かう欲望のあり方が、“方向性を変えて”しまうのである。

男女の肉体的な性という次元に“反映”されている“妙性質の対化”は、“共性”に結びついているということだった。

また、共性とは、“付帯質の外面”としての、私たちの、外的な意識における社会性の領域であった。

そのあり方が“方向性”を変えるとしたら、それは、外的な、性をめぐる表象性が…それはほんとうにありとあらゆる事柄だろうが…内的な方向、そして、その内的な意識の方向性が先手を取りつつ、外的な方向と統合されるという、そのような意識の場としての“付帯質の内面”に向かうということである。


社会的な性、男女の問題を扱っている代表的な論客が、社会学者の宮台氏だろう。

氏のキーワードが、共同体、共同体的身体、そして共通感覚、といったものである。

性が、その場の中心にあるので、逆に、性をトリガーにして、なにがしか、共同性を回復する、というコンセプトであるが、

もちろんそれは大きな共同体ということではない。

メディアの俎上には、いまやほとんど乗ってこない、隠された、小さな、しかしホンモノの共同体があると言う。

正直なところ、そんなものがあるのか、疑問であったし、宮台先生のアドバイスを聞いて、他者コミュニケーションへと“ダイブ”したあかつきに、そのようなホンモノの共同体の場と出会うことができるのか、分からないが、

ヌーソロジー的には、顕在化においては、“共性”が“重性”に変わる、ということのようだ。


●共性(きょうせい) 付帯質の外面における意識状態のすべて。対化の外面におけるすべての次元交差が逆性を作り出してくる状態。似た言葉に重性がある。その違いは、次元を交差することができるか否か。表相が次元を交差することができるのが重性、表相が次元を交差できないものが共性。

共性は対化の外面の方向、重性は対化の内面の方向への力を送りだす。惑星としては共性が金星、重性が土星


次元交差~表相の次元交差の、詳細な具体性はよく分からないが、おそらく、これは“顕在化”の領域だろうと思う。

おそらく、“ヒトの意識~ヒトの表相”と関係がある。


●共性(きょうせい) 付帯質が外面を持ったときにうまれる相対的関係として働く二つの性質(性質と反性質)。形散。同化によって生まれる付帯質の観察次元。形質における中和の働きを完全なものに変えること。

次元の交差を別のものに生みださせようとする状態。対化における性質。重性と共性の違いは、次元を交差することができるか否か。表相が次元を交差することができるのが重性、表相が次元を交差できずに内面性を作り出すものが共性。働きとしては同じもの。


“形散”とは、“形質”が無い、のニュアンスだという。

形質とは、外部認識を、内部認識とに統合させようとする、内的な図式のようなもの…自分はいわゆる“身体図式”、つまり内的な身体感覚としての形のようなもの…と関係していると考えているが…そういう、内的な方向性をもとうとせず、ひたすら、外部的な認識の方で、とりまとまろうとする共同性のあり方。

これは、要するに、国家や、マスメディアという方向を、人間という存在が、もともともっているということである。

Iさんは、国家や貨幣の幻想性を超えて、それが“精神倒錯”であることを言っていたが…おそらくドゥルーズの影響…そのような指向性をもともともっているのが人間なのであり、古代にはや、古代国家がある。

その意味では、“前古代”といった設定は、ヌーソロジー的に考えれば、それは人間の時代ではなく、それ以前の“変換期”に対応しているということになる。(人間の時代は“調整期。それに対するものが“覚醒期”。調整→覚醒の間に変換期がある。)


人間が性に向かおうとする。そして、性が、共同体に動機付けをもたされている。

そしておそらく、その間に、“セックスレス”や“恋愛レス”という、現代的な問題性が引き起こっている。

それはおそらく、従来的なそれが、“外部的な感覚や認識”、つまり“付帯質の外面”に依存しているからだろう。

例えば、実際に、“恋愛映画”というのが機能しなくなっているのではないか。…その逆ベクトルとしての“ボーイズラブ”ものの隆盛など。

そのレベルでの“不能性”が、結果的には、“対象の内的な方向化”をまず招来し、これはある種の、身体の二重化に向かうが…それをやるのは女性であり…女性の身体の襞的な二重性があるということ…そこで、内部性が外部性と統合されて、BL的な指向性が生まれて来ているのかもしれない。

つまり、内部の二重性が、外部の異性という存在と統合されるという現象。

そして、その統合の完全化とは、“脱表象化”を必要とするだろうから、それは表象性の次元ではなく、おそらくは、“舞踏”的ななにかへと、その身体をして向かわせるだろうと予測できる。

そもそもの始まりとしての性のつまづきから、そっちの方向を動機付けされているというのが、現代における、男女の性の困難さとしてあるのではないか、ということになる。

(“重性”とは、従来的な共同体ではない。感覚的には、“聖場”に近いだろう。つまり、霊的な場として、時空を超えて、そこに重なっているということ。)


参考ページ:

“変換作用と人間の性欲の関係”

http://hahaki889.hatenablog.com/entry/2020/02/25/%E5%A4%89%E6%8F%9B%E4%BD%9C%E7%94%A8%E3%81%A8%E4%BA%BA%E9%96%93%E3%81%AE%E6%80%A7%E6%AC%B2%E3%81%AE%E9%96%A2%E4%BF%82